これ以上の円安は、かつてないほど深刻な賃金の低下・雇用の悪化を招く

 物価という言葉を聞いて皆さんが思い浮かべるのは、消費者物価だと思います。そして、この消費者物価がマイナスのままであり、いつまでもデフレから脱却できないでいることが、内需の不振と、景気の低迷である、そのように捉えている方は多い筈です。そしてここから、自民党が日銀に圧力をかけている、2%の物価上昇が達成されるまで無制限の金融緩和を要求する、というものが、市民の間である程度支持を獲得する背景となっています。

 しかし内需や国内景気の問題に関しては、消費者物価とは異なる、もう1つの物価について考える必要があります。そのもう1つの物価とは、企業物価指数です。

 これは何かと言いますと、我々が購入する物品(最終商品)とは別に、企業が商品を生産するために不可欠な原材料などの価格です。企業は、鉄鉱石やゴムや小麦や食用油など様々なものを購入し、そこから商品を生産しています。そして、殆ど注目されてはいませんが、このような原材料などの企業物価と、最終商品である消費者物価の乖離こそが、何よりも国内の景気に影響するのです。話を解りやすくするために、東日本大震災が起こる前の1年間を例にとり、この問題を考えてみます。

 2010年の春から2011年初頭にかけては、概ね企業物価指数はプラスでありながら、それに対して消費者物価指数の方はマイナスという状態でした。これは別の言い方をしますと、企業物価(つまり原材料などの価格)は上がる一方なのに、消費者物価は下落する一方だった、ということです。何故このような妙な事態が起こったかというと、それは中国をはじめとする新興国の需要の増大のため、資源から穀物に至るまで、あらゆる原材料価格が上昇し続け、そうしてコストはかさむ一方でありながら、しかしデフレのため、その原材料価格の上昇を商品価格に転嫁できず、そのぶんは企業がかぶっていたということです。

 こうなるとどういう事態が起きるかと言いますと、企業は、原材料費は上昇する一方なのに、しかしその原材料費の高騰を商品価格に転嫁できず、逆に商品価格は値下がりする一方なので、収益をダブルパンチで圧迫します。すると、企業は、少しでも経営の悪化を防ぐために、原材料費の高騰分を、賃金を減らしたり、従業員を解雇したりすることで相殺するよりほかにないわけです。もちろん、それでも対応できない場合は、倒産します。するとどうなるかというと、低所得者は増える、失業者も増える、だから尚更商品の価格は下げざるをえず、そしてそのことが更なる収益の悪化を招き、だからより一層賃金を減らす、解雇する、倒産が増える、そしてそのことが・・・、という負の循環が止まらなくなります。これが、最悪のパターンというやつです。

 しかし、2011年の夏に南欧諸国の債務危機が深刻化し、そうしてユーロ圏の低迷が中国の輸出鈍化を引き起こし、更に中国の失速がブラジルやオーストラリアの輸出を低迷させて・・・、という連鎖が起こり、原材料価格は下落に転じました。また、このような世界経済全体の低迷を受け、円も買われ、円高も進みました。この2つの要素により、日本がよそから原材料を輸入する際の価格も下落したので、2012年になると、企業物価、つまり原材料費なども下落したのです。消費者物価が下落していても、コストも下落しているので、まだ救われていたのです。

 ところが、既に再三申し上げてきたように、去年の秋、2012年9月終わりから、一転して円安になりました。そして、この2012年9月というのは、それまで悪化する一方だった中国のPMI製造業景況感指数が、上昇に転じた月でもあるです。その後、この中国のPMI製造業景況感指数は4か月連続で改善を続け、12月には、ついに南欧諸国の債務危機が起きる以前、つまり2011年春の段階まで戻ったのです。そしてそれに併せるかのように中国株も右肩上がりで上昇を続け、12月の中国株は実に14%も上昇し、主要国のなかでは抜きん出た好調ぶりを発揮しました。

 一方で、今後中国の景気回復は、更に本格化する可能性があります。というのも、次期首相である李克強が、これまで沿岸部に比べ貧しかった中西部の開発と都市化をはかるべく、インフラその他の大規模な投資計画を発表しているからです。既に世界の投資家は敏感に反応していまして、ロイターが行った調査では、2013年、世界で最も期待できる株式市場として上海が堂々トップです。

 という訳で、今後、中国で様々な需要が拡大するのは、どう考えても、ほぼ確実な情勢です。そして、それは更に他の新興諸国にも波及して、あらゆる資源・食糧価格を押し上げるでしょう。実際、既に原油は12月だけでも6%上昇し、1バレル90ドル台に乗せてきました。一方で、このような状況を受けて、円安も進む一方です。

 すると、どうなるか? 答えははっきりしています。東日本大震災が起きる以前のような、原材料価格は上がるけど、しかしそれを商品価格に転嫁できず、賃金カットや解雇によって対応するというかたちをとらざるをえません。

 そして、このような状況のなかで、安倍首相が言うような、大規模な金融緩和を日銀が行うとどうでしょう? それをやると、消費者物価が上がるよりも先に、更なる円安が進み、日本が輸入する原材料価格が益々高騰して、それによって企業はより一層のコスト高に苦しむだけなのです。よしんば金融緩和によって消費者物価が上がったとしても、その場合は、以前お話ししたようなスタグフレーションが起こります。

 しかし、それだけではないのです。中国の景気が回復した場合、以前だったら、そのぶん中国向け輸出も拡大して外貨を稼ぐこともできました。ところが、尖閣問題を通して、いまだ日中首脳会談開催のメドさえもたたない状況なので、中国向け輸出も期待できません。つまり、以前起こった最悪の負の連鎖を上回る、更に深刻な事態になるのです。

 ちなみに、たとえ円安になろうとも、しかしそのぶん輸出競争力は増すので、中国向け以外の輸出が増加することで景気は良くなるのではないか? そう見る向きもあるかもしれません。ところが、それは無理なのです。というのも、小泉〜第一次安倍政権時代、円は対ドルで120〜110円という今以上の円安であり、その波に乗って07年には80兆円という戦後最高の輸出を記録したのです。しかし、それでもデフレは克服できなかったのです。むしろ格差が広がっただけでした。だから07年夏の参院選において自民党は大敗し、その後安倍氏も総理を辞職したのです。

 この小泉〜第一次安倍内閣時代の記憶は、国内の中小企業の経営者たちにはまだ鮮明に残っていますので、だから絶対にコスト高を商品価格に転嫁できません。しかも今回は、更にそこに日中関係の悪化と、消費税増税が加わろうとしています。するとどうなるか? ①企業物価と消費者物価の乖離による経営悪化、②中国向け輸出の低迷、③低所得者・中小企業に厳しい増税、というトリプルパンチが日本経済を襲うことになります。

 という訳で、自民党の政策によって景気が良くなるというのはとんでもない間違いで、もし自民党の唱える主要な政策がすべて実行されたなら、いずれ日本は、かつてない景気の低迷に見舞われることは間違いありません。しかし、それだけではないのです。かつてないほど生活が苦しくなったところに、電力料金は大幅に上がるわけです。そうなれば、これは確実に、原発再稼働はおろか、新原発建設に向けての圧力となるでしょう。

 現在、景気に関しては、とにかくデフレさえ脱却できれば何とかなる、そのような空気が日本中を蔓延しています。確かに、景気が上向くためにはデフレからの脱却は不可欠です。しかし、デフレ脱却というのは、景気が上向くための必要条件の1つに過ぎないのです。もちろん、必要条件の1つといっても、極めて重要な1つなのですが、しかし景気が上向くのが本来の目的である筈なのに、いつの間にかデフレからの脱却が目的になってしまっています。ところが、このデフレからの脱却というのは、手段を間違えれば、デフレ以上にもっと深刻な景気の低迷を引き起こしかねないのです。そして、自民党が唱える主要な経済政策というのは、まさにその最悪の景気低迷を引き起こしかねないものばかりなのです。そしてその先に待っているのは、新原発の建設です。

 じゃあ、どうすればいいのか? 景気を上向かせるために真に重要なのは、いかに物価を上げるか、ではなく、いかに可処分所得を引き上げるか、別の言い方をすれば、いかに市民の購買力を引き上げるか、これなのです。消費に回せる可処分所得が向上すれば、いずれデフレは脱却します。というより、それ以外に、真の意味でのデフレ脱却は不可能です。

 そのために政治に出来ることは何なのか? 主に、3つあります。まず1つ目は、大企業・富裕層優遇税制をやめ、公正な税負担に基づく分配を行い、それにより低所得者の購買力を押し上げること。2つ目は、規制改革を行い、これまで天下り企業や公益法人などが独占し、あるいは中間搾取してきた領域に市場原理を導入し、そうしてビジネスを活性化させること。3つ目は、消費の鍵を握るとされる女性がもっと労働市場に参加し、女性の就労の促進や女性起業家が増えるように、環境整備を整えること。

 もちろんその先には、三大都市圏集中の産業のあり方から地域分散型の経済モデルへの転換が必要となるわけですが、しかしそのためにも、まずはこの3つは断固としてなされなければ始まりません。

 ところが、この3つというのは、つまるところ、大企業、天下り企業、中高年男性、などといった既得権益層から、その既得権を剥ぎ取ることに他ならないわけです。しかし、これをやる以外には、どうしようもありません。一方で、この3つを断行できるなら、必ず日本の経済は復活します。何故なら、いまの日本は、物凄いカネ余りの状態だからです。以下は、日経新聞電子版12月27日の記事です。

 「日銀によると、2012年9月末時点の金融資産残高のうち、現預金の占める比率は約27%となり、過去最高に達した。(中略)国内民間企業(金融除く)の9月末時点の金融資産残高は約791兆円。このうち27・2%を占める約215兆円が現預金だった。現預金残高はリーマン・ショック後の08年12月末から16四半期連続で前年同期比で増えている」。

 ご覧の通り、とんでもない金額が余りまくっているのです。日銀白川総裁が大規模な金融緩和に消極的であるのも、当たり前なのです。これだけの凄まじいカネ余り状態のなか、更に日銀がマネー供給を増やしたからといって、何にもならないです。既に日本には、これほどに膨大な金額が余っているのです。

 しかし、これら膨大な金融資産を保有する既得権益層は、身の保身を考えるだけで、新規ビジネスのアイデアもなければ挑戦の意欲もまったくありません。ならばそのぶんは税として徴収し、それを必要な人々に分配する一方で、新たなビジネスチャンス開拓のための規制改革や女性の登用を行えば、経済はいくらでも活性化します。

 という訳で、真のデフレ脱却のために重要なのは、日銀による大規模な金融緩和ではなく、いかに既得権を剥ぎ取り、物事を公正且つオープンにできるか、これがすべてといっていいのです。

 してみれば、電力業界こそは、既得権や癒着の最たるものであることにすぐ気付きます。つまり、電力業界こそは、まさにデフレ脱却の障害となっているものの象徴であるわけです。そうであるならば、ここを改革せずに、どうしてデフレから脱却できるというのでしょう? 

 廃炉費用などまで含めれば膨大な費用のかかる原発をやめること、そして発送電分離を行うこと、この2つは、もはやデフレ脱却のための必須条件といえるのではないでしょうか? しかもいまの日本には、菅・枝野政権のときに法案が可決した再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度があるのです。この法案を生かして、再生可能エネルギーの分野を伸ばすことがいかに多くの雇用を生み、可処分所得を向上させるか、それは既に多くの論者が指摘するところです。

 要するに、重要なのは、既得権益層に富が集中している現状を打開し、いかにマネー循環を良くするかなのです。そのために必要なのは、日銀が更なる大規模な金融緩和をおこなうことではありません。むしろそれをすることは、より一層の円安誘導につながると同時に、過剰供給されたマネーが投機筋へと渡って資源・穀物価格を吊り上げ、そうして原材料価格を二重に上昇させるだけなのです。

 また、言うまでもないことですが、日中関係を改善することも重要です。それも、単に中国向け輸出が増加するだけでなく、税制改革を行い、輸出によって稼いだ外貨が分配によって低所得層の購買力を押し上げることに繋がって、輸出の増加は非常に大きな意味を持ってきます。

 という訳で、要は、既得権を剥ぎ取り物事を公正でオープンにすること、そして隣国と友好関係を築くこと、つまり当たり前のことを着実に実行することを通じてのみ、はじめて日本は真の意味でデフレを脱却できるのです。