一遍あるいはニーチェ、推理小説としての音楽(3)

 津田大介の最新の著作『動員の革命』の最後に付された、中沢新一いとうせいこうとの鼎談のなかで、明治時代に川上音二郎が行った音楽・オッペケペーについて論じられている箇所がある。デモの中心に音楽があるというのは、人類普遍の趨勢であり、それは日本においても、かつて自由民権運動足尾銅山問題の抗議運動などで、市民が権力に立ち向かう際に、最も重要な要素としてオッペケペーが使われていたというのだ。

 前回このシリーズで述べたように、川上音二郎オッペケペーとはラップである。そのことは、津田・中沢・いとうの三氏も十分承知しており、たとえば中沢新一はこの鼎談において「オッペケペーは日本のヒップホップの源流でしょう」と語っている。

 しかし問題は、オッペケペーが日本のヒップホップの源流であるにしても、川上音二郎のラップはどこに源流があるのか、ということだ。この疑問は当然出てくるだろう。というのも、川上音二郎の音楽は、明らかに日本の音楽の土壌で育まれたものであるからだ。それはつまり、明治時代に入った時点において、既に日本にはラップをやる素地があったということを意味する。

 多くの人にとって、江戸時代の日本に何故ラップをやる下地があったのか? いったいどういうことなんだ? という疑問は当然湧いてくるものだろう。それというのも、江戸時代、日本は鎖国していたということになっているからだ。

 しかし、ここではっきりさせておくことがある。江戸時代に鎖国がなされていたというのは、権力が仕組んだ嘘だということだ。既にこのシリーズの第1回目で述べたように、検定教科書というのは、「検定」という名の「検閲」である。そして原発事故の対応で明らかなように、たとえば文科省はSPEEDIの情報を米軍には即刻渡しておきながら、国民に対してはひた隠しにし、結果フリージャーナリストたちから大本営発表と猛烈に批判されるほど嘘の発表を繰り返した。それ以外にも、年金にしても、公共事業の発注にしても、米軍基地の問題にしても、とにかくなんであれ嘘で塗り固めてきた霞が関である。教育だけは真実を提供してきました、などと信じる方がそもそもどうかしているのだ。

 だが、多くの日本人は、江戸時代において日本は鎖国していたという嘘を真に受け、それを真実だと思っている。しかし実際は違う。この時代、民間レベルでは、諸外国と非常に活発に交易がなされていたのだ。

 一般的に、江戸時代において交流があったのは、長崎の出島を通してのオランダや、朝鮮通信使など、国家が許可した枠のなかでの極めて狭いものに限らていた、というのが通説である。しかしそれに対して真っ向から異議を唱えるのが網野善彦だ。彼は著書『海民と日本社会』において、中世・近世を通して日本がいかに諸外国と盛んに交易を行ってきたかを詳細に記している。

 近代の以前、まだ産業革命により鉄道や飛行機などが生まれる前の段階において、物流の中心は船だった。これは、海や大河に恵まれた地域であれば、世界共通のことである。だからご多聞に漏れず日本でも、たとえば北陸から大阪にコメをはじめ様々な物品を運ぶ際には、日本海から関門海峡を通って瀬戸内海を進み、そうして大阪まで運んでいた。何故かというと、それが最もコストがかからず、おまけに時間的にも早く目的地に着くからである。という訳で、当時は日本の至るところで、物資を積んだ船がしょっちゅう港を出港していたのだ。さて、問題はここからである。

 航海といっても、当たり前だが、当時はレーダーなどというものはない。だから船はいったん港を出てしまえば、あとはどこを通って、どの港に寄ろうと、陸からは絶対に解りようがない。察しがついただろうか? つまり、これは現代における20歳以下の飲酒と同じなのだ。もしもいまから200年後の日本人が、当時は権力によって20歳以下の飲酒は禁じられていたので、だからたとえ大学生や会社員でも18歳や19歳の人はみんなお酒は飲んでいませんでした、と教科書に書いたとしたらどうなるか? それは当然事実と違う。なにバカなこと言ってんだよ、飲み屋行ったってどうせばれやしないんだから、お上が禁じてるなんてそんなこといちいち真に受けるわけないだろ……、そう我々は200年後の日本人に対して訴えたいと思うだろう。 

 それと同じなのだ。江戸時代も、たとえば北陸の港を出港した船が、日本海を西に進んでそのまま釜山や上海に行って取引をして帰ってきても、行政には絶対にばれないのである。ばれる方がおかしいのだ。当時、国内向けに船は至るところから数えきれないほど出港しているうえに、レーダーもないのである。もちろん海上保安庁による国境監視船などというものもない。だから基本的には、行政に黙って外国と貿易してもばれることはない。もし仮にばれた場合どうするかというと、そのときは、漂流しちゃいました、ということにするのである。……いや、あのですね、本当は関門海峡から瀬戸内海に入ろうとしたんですよ、でも凄い嵐が来ちゃいまして、それで北へ北へ流されましてね、やっとの思いで釜山の港に避難して、もう大変だったんですよ〜……、ということにしていたのだ。

 網野は『海民と日本社会』のなかで、韓国で刊行されたという資料を引き合いに出し、次のように言っている。

 「漂流民の日記はたくさん残っていますが、漂流という名目で、貿易が行われていたことはほぼ確実のようで、江戸時代をこれまでのように国が閉ざされていた、と捉えることはもはや出来ないと思います」。

 しかし、ここで注意すべきは、「漂流」という名目はあくまでも権力の側にばれたときの言い訳であり、実際は記録に残っている以上に頻繁に交易がなされていたのである。

 網野によると、たとえば若狭湾能登半島の沿岸部で暮らしていた人々は、記録上は水呑百姓ということになっているものの、しかしそれは土地を持っていない貧しい農民だったということではなく、正しくは、朝鮮や中国や東南アジアなどの地域を相手に貿易関連のビジネスでおカネを稼ぐ、海運や金融や技術系のエンジニアリングに従事しており、よって農地を持つ必要もないほど十分な稼ぎがあったというのが正直なところだというのである。

 そして技術系のエンジニアリングには、各種伝統工芸品の職人たちも当然含まれる。

 能登半島といえば有名な輪島塗があるが、かつて日本の漆器は海外で大人気であり、蒔絵などにいたっては、鎌倉時代においてまず中国に、そして室町時代後期になるとヨーロッパにも数多く輸出され、極めて高い値段で取引された。たとえばマリー・アントワネットの蒔絵コレクションなどは数十点にのぼる。蒔絵というのは、かつては世界屈指のラグジュアリー・アイテムだったのだ注1

 そもそも、古代以来、コメ作りの技術、土木の技術、その他色々なことが、日本と朝鮮半島や中国などとの相互依存のなかでやりとりされ、そうして社会が発展してきたわけだが、かつての大陸との関係について、相互依存という認識を持っている人はあまりいない。日本の方が遣唐使などを派遣して大陸から一方的に学び続けたと捉えている向きが圧倒的に多数だろう。教科書などではそう教えられてきたわけだが、もちろんこれも嘘である。実際のところ、中世の日本には、資金も、人も、共に外国から大量に入ってきていたのだ。その主力を担ったのは、中国系である。

 既に平安時代の後半において、唐人町と呼ばれる、いまでいうところのチャイナタウンが、西日本や北陸をはじめ各地に存在していた。なかでもとりわけ規模の大きかったのは博多である。博多には、大唐街と呼ばれる巨大チャイナタウンがあり、活発な経済活動がおこなわれていた。

 「すでに11世紀の終わりには、いわゆる大唐街が博多に形成されており、博多鋼首と呼ばれた宋人の船頭を中心とする宋商の集団は、博多に居住して南宋との貿易に携わっていた」(網野善彦『海民と日本社会』)。

 そして大陸から日本への移民は、それ以降、続々と増えていったのである。しかも、彼らは単に経済活動をするだけではなく、土地の領主から所領を受ける者もいれば、ビジネスを通して京都の朝廷の中枢と深い人脈を築く者もいて、そうやって中国系の移民が日本の既得権に食い込んでいき、それにより社会を活性化させていくことは、当時珍しいことでもなんでもなかった。あまりにも当たり前のことだったのだ。

 だいたい、当時の人々の間には、国民などという意識はない。それはなにも日本になかっただけではなく、フランスにもイギリスにもとにかく世界中どこにもなかった。国民というのは明確に近代の産物である。市民革命を通して国民国家が出来るのを受けて、それではじめて「国民」というものが生まれたのだ。それ以前においては、世界中どこを探したって国民など存在しない。だから、中世においては、外国人だの自国民だのという色眼鏡で人を見ることなど基本的になかったのである。中国系の移民のなかには、日本においてその土地の人と婚姻関係を結ぶ者も続出したし、社会に溶け込む過程で和名を使う者も続出した。そうして実に多くの人たちが大陸から渡ってきて、そのまま社会に溶け込んでいったのである。彼らにとって、日本はそれだけ魅力的な土地だったということだ。

 というのも、マルコ・ポーロは中国を通して黄金の国ジパングのことを知るわけだが、それはどういうことかいうと、何よりも当時の中国の人たちが日本のことを黄金の国だと思っていたのである。だから彼らはマルコ・ポーロにもそう語ったのだ。当時中国の人たちは、東シナ海を渡れば、すぐそこに非常に豊かな黄金の国があると思っていた。そしてそうである以上、彼らが、こんな戦乱続きの大陸にいるよりも平和と富を求めて海を渡ろうと考えるのは極めて合理的な判断なわけで、だからこそ、たとえばモンゴルの侵略にあって南宋が滅んだ際などには、大量の人々が海を渡って日本にやって来たのだ。しかも彼らは、黄金のみならず、日本が優れた技術と高度な文明を持っている社会であることも知っていた。それを示す何よりの物的証拠こそ、蒔絵である。

 先程、鎌倉時代において、蒔絵は日本から大陸に向けて数多く輸出されていたと述べたが、ところで、この蒔絵というのは、現代のわたしたちから見ても相当に凄いのである。驚くほど精緻に作られていて、おまけに金粉を大胆に使い、実に豪奢だ。蒔絵の実物を見て、これに魅了されないものはいない。だから実際、室町時代後期に日本に来航したイエズス会の宣教師たちもこの蒔絵の虜になり、蒔絵師に対してカトリック関連の道具を色々と特注で作ってもらうなどして、それをそのまま大量に本国に持ち帰った。更にその後オランダの商人たちも蒔絵の売買で多額の富を築いた。そうである以上、当然のように、蒔絵は中国の人々も魅了した。だからこそ、その需要に応じてたくさん輸出されたのである。彼らは蒔絵を通して、更にその他色々なものを通して、日本の技術や文明の度合を十分に理解していたのだ(これは、1980年代において、外国の人々がホンダやソニーの製品などを通して日本の文明の度合いを推し量っていたのと同じメカニズムである)。そしてまた、海の向こうから日本にやってきたのは中国系だけではない。後ほど詳しく見ていくが、実に多様な人たちがやってきているのである。

 そしてこれと関連して、日本はとにかく周り全部を海に囲まれた島国で、だから周囲の地域と隔絶して、技術とかそういうものもとても遅れていた、などとよく言われるわけだが、これだってもちろん嘘なのだ。たとえば、天守閣というものがある。天守閣といえば日本の伝統的な城郭建築の代表とみなされているが、しかし天守閣は別に日本古来のものではなない。天守閣の元となったのはヨーロッパの城郭であり、これを日本で最初に導入したのは信長である。信長はイエズス会と関係が深く、彼らを通じてヨーロッパから数々の情報を得ていた。もちろん貿易に関しては他の誰よりも熱心におこなっていたわけだが、ところで、当時の日本は、ジパングと呼ばれたように、実に金が豊富に採れた。当時の日本は、世界の金の産出量のおよそ3分の1を産出する金の産出大国だった。なので世界的に見ても非常に裕福だったわけだが、その力を背景に信長はヨーロッパと関係をつくっており、その過程で信長はヨーロッパの城の内実を知って、これは素晴らしい、是非導入しよう、ということになって、そうして日本の木造建築に見合うかたちで導入された。すると天守閣はあっという間に広まったのである。で、重要なのはここからだ。

 木造建築に見合うかたちで、とさらりと言ったが、しかし単に外国のものを導入するというだけではなく、石の文化に根差した建築を木造の建築に翻訳するというのは、およそ容易ではない。パソコンはおろかビデオや写真もない時代にそれをおこなうには、相当に高度な設計思想と技術を必要とする。でなければそんなことは不可能なのだ。にもかかわらず、安土城はあっさりと建設された。このことは、当時の日本のエンジニアがいかにクリエイティヴであったかを如実に物語る。このことはまるで注目されていない。さも当たり前のように造っているが、当たり前ではない。実物など全く見たことない者たちばかりなのだ。話に聞いただけで誰もヨーロッパの城郭建築など見たことがない。それが、パソコンやビデオはもちろん写真だってないなかで、石の文化に根差したそれを木造の建築へとあっさり翻訳しているのである。これはとてつもない技術である。

 更に、当時日本は世界の金の3分の1を産出していたということにも留保を要する。というのも、たとえば現代においても、それまで天然資源などまったくないとされていたところに、実は油田があったとか、レアアースが眠っているとか、そういう事実が突然明らかになることが度々ある。しかし、では何故それまでそういった天然資源の埋蔵に気付かなかったかというと、それは測量の技術が十分ではなかったからだ。これは逆に言うと、技術の進歩が天然資源の発見を可能にしたのである。また一方で、21世紀になって北米でシェールガスの採掘革命というのが起こったのだが、これは何かというと、北米に大量のシェールガスが地下に眠っているということは以前から解っていたものの、それを採掘する技術がなかったのだ。それがイノベーションによってようやく採掘が可能になったのである。つまり、天然資源を手に入れるには、まず第一に測量の技術が必要であり、第二に採掘の技術が必要であり、そして第三に精製の技術が必要になる。これらの技術のうちどれか一つでも未熟なら、たとえその土地に天然資源が眠っていても、それを手に入れることは絶対に出来ないのである。

 そして、中世の日本は世界の金の3分の1を産出していた。これはつまり、当時の日本には、ここに金が眠っているぞということが解る測量の技術があり、更にそれを採掘するための技術もあり、そして採掘したものを精製する技術まで、全部持っていたということだ。という訳で、石の文化に根差したヨーロッパの城郭を木造建築に翻訳して見事に造ってしまったことから見ても、また大量の金を産出するための測量・採掘・精製の技術を全部持っていたことから見ても、当時の日本は、極めてハイレベルな技術を持っていたということになる。これは疑いようのない事実である。

 こうして、天守閣は短期間であっという間に広まり、日本各地で建設されて、また金山や銀山も当時は日本のあちこちに存在した。これらの事実から、当時の日本には、ハイレベルなエンジニアが全国各地に当たり前のように、且つ大量に存在したことは確実であり、更にまた、これら一連の事業を通して多額の儲けを得ていた金融機関や個人投資家が日本のあちこちに存在していたこともまた事実であるわけで、このことは、中世においても、近世においても、日本は農村を基盤とした封建社会だった、というこれまでのイメージとは大きくかけ離れる。だが、極めて高度な技術があったことは疑いようのない事実である。網野は『海民と日本社会』において、次のように言っている。
 
 「19世紀後半、新たに西欧諸国が開国を迫ったときの日本は、決して封建的、守旧的な農業社会などではなく、すでにかなり高度に発展した産業・商業を保持する経済社会であったと考えられる。となれば、明治以後の日本の急速な近代化・工業化は、とくに不可解なこととはいえないだろう」。

 という訳で、かつての日本において、相当に高度な技術を必要とする事業があちこちで盛んにおこなわれていたことは明らかなのだ。大阪城や姫路城や熊本城や会津若松城などの城郭、それから佐渡金山跡地や石見銀山跡地といったところは、すべて物的証拠として、当時の日本のハイクオリティな技術や資金の動きをとても雄弁に物語るものである。

 そして、このように優れた技術を、国内でのみ得られる情報、国内でのみ育った人材、だけで身につけることはまず不可能だということも、誰の目にも明らかである。実際その通りで、かつて海というのは何よりも交通の道だったのだ。網野は『海民と日本社会』において、「日本列島の交通体系は、川と海を交通の基本としており、なかんずく、日本海が最も活気に満ちた海の交通の大動脈であった」と言い、「近代に入って東京都が首都になり、陸上交通、つまり鉄道や道路が交通体系の中心になってから」の「常識」に囚われることのないよう、読者に対して繰り返し訴えている。

 海によって大陸と隔絶した島国などというのは大嘘もいいところなのだ。それは鉄道や自動車などで移動するのが当たり前という近代の感覚に訴える、権力が仕組んだ罠である。『歴史と出会う』のなかで、網野は次のように言っている。

 「近代以前から歴史を辿ってみますと、明治政府が国民国家をつくるためにいかに偽りに満ちた日本社会の『虚像』をつくりだして、それを日本人に刷り込んだかが、非常にくっきりとよくわかりました」。

 「日本の『孤立した島国』という意識は、領土であるいくつかの島の中で国民国家をつくらなければならないために、海に国境という意味を持たせ、日本は海に囲まれており孤立しているということを、明治以降の政府は国民の頭に刷り込んだのです」。

 これは、明確に洗脳である。しかし、網野は断言する。

 「江戸時代の社会というのはかなり高度に発達した経済社会です。庶民の知識レベルも高いし、商品経済も非常に高度に発達していますしね。手工業も相当のレベルまでいっていたと思います」。

 「ヨーロッパの技術が入ってくると、すぐにそれを消化するだけの条件を十分に備えていました」。

 「『孤立した島国』だから『島国根性』があって、日本人は国際性に欠けるなどと言うけれども、むしろ庶民は国際性があったと思いますね」。

 何故か? 諸外国と、海で繋がっていたからだ。『海民と日本社会』において、網野は次のように言う。

 「海を舞台とする人々の活躍は江戸時代を通じて活気に満ちており、とくに商人・廻船人としてその名を知られた人々のほとんどが海民の出身であったことは決して見逃すことのできない事実といわなくてはならない。そしてこれらの人々の活動の中に蓄積されてきた商取引、経営、雇用に関する実務能力をふくめて、江戸時代の社会の経済的、学問的な達成が想像以上に確立していたことは、十分に予想しうる」。

 事実、この時期の日本産品のクオリティの尋常ではないレベルの高さは、何よりもヨーロッパにおいて証明されている。たとえば織物業に関して言うと、パリ・コレクションなどヨーロッパの服飾産業の担い手たちが、日本の着物からいかに多くの着想を得てきたか、そうして19世紀以来、日本の着物がヨーロッパのモードの変革にいかに多くの寄与をしてきたかについては、かつて東京ビッグサイトで開催された「モードのジャポニスム展」における一連の展示が、その詳細を詳らかに明らかにした。

 更にこの展示会に際し、高階秀爾が寄せた論文には、「17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパに輸出された大量の有田焼が、ドレスデン磁器の創成に無視しえない大きな役割を果たした」ことなどが記されている注2。もちろん上流階級の間でも広範に愛用されており、たとえばマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』において、資産家であるスワンの奥方オデットの部屋には、日本の物品がインテリアとしてごく普通に登場する。蒔絵については今更言うまでもないだろう。という訳で、このように、江戸時代の日本産品は、フランスの富裕層からドイツの手工業者まで、実に幅広く影響を及ぼしているのである。このことは、日本産品が、当時から非常に優れた国際競争力を持っていたことを雄弁に物語る。

 何故江戸時代において、これほどまで高度に発達した経済社会が日本において構築されていたのか? 事業に関わる人々が、外の情報を知らず、すべて国内だけの慣習、国内だけの人材で物事を営んでいては、そのような高みに達すること、そのような創意工夫がなされることは、まず不可能である。それは、多種多様な地域の人々との交流があってはじめて可能となるものだ。

 繰り返すが、産業革命が起こる以前の世界では、人や物が移動する際は、船は最も便利でコストもかからない手段だった。

 これは何故かというと、大量の物品を陸路で運ぶ場合、大量の馬と大量の人夫を必要とするのであり、莫大なコストがかかる。それよりも、船で行く方がコストははるかに安くなる。更に、馬よりも船を用いる方が時間も大幅に短縮出来る。だから前近代においては、何よりも海こそが、次いで河川と運河が、最大の交易路だったのだ。これは、ある程度商工業が発展したところなら、世界共通である。

 このことを思えば、中世のヨーロッパにおいて最も栄えた都市がヴェネチアであったということも、極めて容易に理解出来るだろう。ヴェネチアは地中海貿易の拠点だった。だからこそ中世において非常に繁栄した。

 他にも、ジェノヴァパレルモイスタンブールなども、ヴェネチアと同様の地中海に面した港湾都市であり、中世の経済においては、いずれも主役級の役割を果たしている。そして、トルコの首都であるイスタンブールを除けば、ヴェネチアジェノヴァパレルモなどは現代においては地方都市に過ぎないが、しかし当時はマドリードやミラノやベルリンやミュンヘンなど及びもつかないほどの存在感を示し、地中海貿易の拠点として栄えたのである

 という訳で、当時の人々は、海を通してとても盛んに行き来していたのだ。そうであればこそ、日本においても、交通の大動脈である日本海沿岸部の諸都市を中心として、数多くのチャイナタウンが各地に存在したのである。これに関しては、大唐街と呼ばれる巨大チャイナタウンがあった博多の重要性というのは非常に大きなものがあるのだが、しかしそれと並んで見過ごせないのが、若狭湾能登半島が果たした役割である。

 というのも、この地域はまず朝鮮半島に近い。しかしそれだけでなく、あのあたりは、現在の中国黒竜江省にあたる地域や、更にはウラジオストクなどのロシア方面にも近いのだ。という訳で、当時北陸の港は、日本と朝鮮半島中国東北部、ロシア方面との貿易の拠点、北東アジアの経済の要衝としてとても重要な土地だった。それどころか、若狭湾には、15世紀の時点で既にインドネシアスマトラ島から大量の物品を積んだ貿易船が来航しているのである。

 「15世紀のごく初め、若狭の小浜にスマトラパレンバンから、南蛮船と言われた船がオウムや象を乗せて入港したという有名な記録が残っています。これは決して一時的に偶然来たというのではなく、何回にもわたって来着しており、日本国王に充てた国書も持っていますので、日本海の海の大動脈は、はるか南の東南アジアまでつながっていたことは確実です」(網野善彦『海民と日本社会』)。

 東南アジアの商人たちから見れば、彼らがアイヌやロシア方面と貿易をして、一方で朝鮮や中国とも貿易する際の中継点として、若狭湾はとても便利であり、もちろん若狭湾は京都にも近いのでそのまま日本との窓口にもなる。だからとても重宝されたのだ。

 という訳で、若狭湾能登半島などの北陸は、ロシア、アイヌ、朝鮮、中国、東南アジアを結ぶ一大貿易拠点だったのである。だからこそ、最先端の技術や情報が集積していたのだ。また、そうであればこそ、信長も安土に城を構えたのである。なにしろ安土から若狭湾までは近い。先程、日本海こそ交通の大動脈だったと言ったが、それは第一に対外的なものであり、国内における交通の大動脈はどのようなものだったのか? 網野は『海民と日本社会』において、「北九州、瀬戸内海から淀川、宇治川と経て、琵琶湖に入り、湾を経由して日本海敦賀、若狭に出る」ルートこそ「日本列島を横断する大動脈」であると明確に断言している。

 という訳で、安土という土地は、琵琶湖から淀川を下れば京都・大阪を経由して瀬戸内海に出ることが出来て、一方ではすぐ裏側の敦賀・若狭から日本海に出ることが可能なのである。楽市・楽座、貿易の振興という信長の経済政策を考えれば、居城を構えるうえで、これほど適した場所はない。信長が合理主義者だったというのはよく知られていることだが、まさにそうである以上、安土を根拠地にするというのは、経済面を考えると、極めて合理的な判断である。

 インドネシアスマトラ島からの国書を携えた貿易船が、若狭に来航したということはまさにその証明なのだ。国書を携えた貿易船となれば、その来航する港も、当然ながら厳選される。しなびた港に船を寄せるなど、相手国の君主に対して、失礼以外のなにものでもない。だから、そのような貿易船が若狭に来航したということは、若狭が非常に国際的に名の知れた、極めて格の高い貿易港であったという何よりの証明である。

 このように、かつて北陸の若狭湾能登半島というのは、中世・近世を通して、国際的な海洋貿易の一大拠点として大いに栄えたのである。現在、これらの地域はいずれも多数の原発の立地するところとなっており、地域の経済といえば原発絡みの交付金に頼る以外にない辺鄙なところだとか、更に江戸時代も、このあたりは田畑も貧弱なので相当に貧しいところだったのだろうというような認識が支配的だが、しかしそれは事実とは大きく異なるものであり、これらの地域は、かつて第一級の国際的な海洋都市だったのだ。それが近代以降、権力の手によって、その事実を徹底的に隠蔽されてきたのである。

 さて、日本のど真ん中において最も重要な経済拠点だったのが若狭・能登だというのがこれで明らかになったわけだが、では北の方においてはどこが重要な貿易拠点だったのだろうか? 網野によれば、それは何よりも青森の津軽・下北だというのである。

 この地域も現在、原発と核燃施設が大挙して立地し、若狭・能登に負けず劣らずの辺鄙なところだったというのが通説である。だが、それは近代に入ってからのことであり、それ以前においてはまったく違う。

 網野の筆による、かつての津軽・下北の記述は、実に驚くべきものである。網野によると、北陸の諸地域のように、「現在寒村と思われているような所が、実は江戸時代に遡ると大きな港町であったというようなケースがいくらでもあります」ということなのだが、しかしそれだけではなく、この地域の中心的な都市として栄えた十三湊は「本州の最北の港として、博多、堺にも比較しうるような港であった」というのである。

 これは俄かには信じがたいものがある。しかし、網野によれば、これは確実な事実だという。

 ここでまず重要なのが、安藤氏の存在である。安藤氏というのは、自らを「日本(ひのもと)将軍」と号し、十三湊を中心として、津軽・下北から北海道の南部を治めた“海の領主”である。

 そして、『海民と日本社会』によれば、海を通して「若狭と十三湊はただならぬ関係を持っていた」のみならず、「十三湊と北九州は海の道でつながって」おり、「西の玄関口博多、あるいは和泉の堺などと通じて、西方に向かって大きな貿易ルートが開かれて」おり、そうしてこの地域の人々は、広く交易に従事していたのだ。

 もとよりアイヌやロシアなどと密接な関係があったことは言うまでもない。『日本論の視座 列島の社会と国家』において、網野は次のように言っている。

 「南九州と奄美、沖縄との間に文化の交流があったとすれば、宮古、八重島と台湾との間に同じことがあったのは当然であり、東北と北海道の海が人と人とを結ぶならば、北海道とサハリン、沿海州との間を結ぶ海が同じ役割をしない筈はないのである」。

 要するに、南九州や沖縄など南洋の島々の間で緊密な経済交流があった以上、同じことが北方においてもなされていないわけがないということだ。そして実際その通りで、『日本論の視座 列島の社会と国家』において網野は、モンゴルのサハリン侵入を契機として後に大きく発展した、山丹貿易と呼ばれる北方の海を中心とした経済連携に触れる一方で、十三湊には中国と朝鮮半島からも貿易船が頻繁に来航していることを論じている。

 という訳で、この津軽・下北の人々は、東南アジアからロシアに至る、非常にスケールの大きな範囲で経済活動を行っていたのである。網野が十三湊のことを「博多、堺にも比較しうるような港であった」というのも、故あることなのだ。

 さて、日本の交易の最北の拠点が十三湊であったなら、では最西端はどこだったのか? 博多? それが違うのだ。『日本論の視座 列島の社会と国家』、及び『海民と日本社会』によると、それは玄界灘だというのである。実はこの地域にも現在玄海原発というのがあるわけだが、しかしだからといってここが江戸時代も経済的に貧しい、辺鄙なところだったと捉えるならそれは間違いである。

 言うまでもなく、ここからは朝鮮半島がすぐなのだ。鉄道や自動車など陸上交通を主要な移動手段とする現代の感覚を脱却し、海上交通の目線で物事を眺めれば、玄界灘から朝鮮半島など、殆ど近所といっていいぐらいである。更にこの地は、東シナ海を通じて、中国にも近い。若狭・能登津軽・下北があれだけ広範に動いて貿易を行っていたことを考えれば、この地域の人々が外に目を向けず、自給自足の生活に甘んじるなどというのは、およそありうべきことではない。

 網野によると、この地域を治めていた“海の領主”の松浦(まつら)党は、太宰府を押さえ、更に宗像社を押さえ、そうして有明海から広く海上交通のネットワークを構築し、実に広範に渡り活動していたという。そしてそもそも、この松浦党と安藤氏が、海で繋がっているのである。だからこそ、安藤氏も東南アジアへの道が開けていたのだ。

 そして当然ながら、「北九州の海上交通を支配することは」、京・大阪方面へと一直線に通じる「瀬戸内海の方面と連動して」いる。

 北九州から瀬戸内海に入り、京・大阪へと通じる瀬戸内海航路こそ、日本の交通の大動脈である。なので関門海峡を通って瀬戸内海へと入る、まさにその入り口にあたる上関と伊方は、海上交通における要衝中の要衝である。しかしここにも、現在しっかりと原発があるのだ。

 しかしこれらの地域にしても、江戸時代において貧しかったわけではない。たとえば、『海民と日本社会』には「上関はさきほどの輪島とよく似ています」という網野の分析がある。輪島というのは、能登半島における中心的な都市であるが、江戸時代における輪島の人々は「貧しい農民であるどころか、土地を全く持つ必要のない、廻船人、商人、あるいは専門の職人だった」。これらは現代的に言うと、海運業者、ビジネスマン、エンジニア、といった職業になる。そしてこのような人々が生活を営む輪島は、「交易の最先端を行く、非常に多くの商人や廻船人が活動し、その根拠地である多くの都市が分布する、非常に豊かな土地だった」のだ。

 であるならば、江戸時代における上関にしても、「輪島とよく似ている」以上、当然ながら、海運業者、ビジネスマン、エンジニアなどが旺盛な活動を行い、「交易の最先端を行く」「非常に豊かな」地域だったのである。

 実際、網野は上関について、『海民と日本社会』で次のように言っている。

 「上関の人々は皆、間人(間男)という『水呑』ですが、これらの人々の中には農人はいません。すべて船持ち、商人、職人などの都市民です。都市民は、さきほどの在家人のように田畠を持っていません。そして、土地を持たないと、江戸時代の制度では『水呑』になってしまうのです。ですが、『水呑』が多いからこの村は貧しいなどとは絶対に言えないのです。『水呑』が多いところはかえって都市で、大金持ちが多い場合もあります」

 という訳で、上関も、その「大金持ちが多い場合」の1つなのだ。

 北九州から瀬戸内海の地域に関して、注意すべきは、かつて日本の国家権力が「海賊」といい、朝鮮半島の国家権力が「倭寇」といった存在についてである。彼らは、教科書が教えるところによれば、海を舞台として沿岸部の地域を荒らし回るとんでもない連中ということになっているが、しかしこのような記述は、網野によれば全く事実と異なるでっち上げである。

 中央の朝廷・王権は、土地(領土)を基盤とし、そこから荘園制・封建制によるピラミッド型のヒエラルキーでの統治を志向するが、それに対し、海上交通のネットワークをフルに生かし、ドゥルーズガタリが言うところの「脱領土化」の動きを徹底的に推し進めた者たちこそ、「海賊」「倭寇」の正体である。平たく言うと、彼らは、中世の日本において権力から「悪党」と呼ばれた者たちの海民ヴァージョンである。

 このシリーズの第1回目で述べたように、中世の日本においては、「悪党」とか「悪人正機」という言葉が盛んに言われていた。

 というのも、平安時代以来、日本の経済は荘園制を基盤に営まれており、京都の貴族や南都北嶺の大寺社などはとりわけ多くの荘園を有し、彼らが社会の富を独占していた。

 しかし鎌倉時代に入って状況は変わる。門前市などを背景に、貨幣経済は徐々に浸透し、一方で金融も発展する。鎌倉時代も後期になると、全国的に為替手形の使用が当たり前になってゆく。だが、これら市場経済興隆の動きは、権力の側にとっては都合の悪いものだった。それは大貴族・大寺社が有する、荘園に依存した経済のありようを解体する方向へと向かうからだ。

 そして彼らは、市井のなかでフットワークよく動きまわる民間の金融機関を「悪党」と呼び、批判する。大貴族や大寺社は、自分たちの手の届かないところで自由に流動する資金の流れを断とうと、またその資金のルートを我が物にしようとやっきになった。そんな状況のなか、悪党でも救済される悪人正機を説く親鸞が現れる。そうして市井の間で民主的におこなわれる市場経済に思想的な裏付けを与える。だが、これは京都の大貴族や大寺社にとっては邪魔以外のなにものでもなかった。社会秩序を乱し、危険思想を吹聴する者として親鸞は即座に島流しにあう。しかし、流刑に処せられながらも、親鸞への信望は高まり、信者は増える一方だった。更にその後、一遍も登場する。だが、その一遍もまた、権力による徹底的な弾圧にあった。

 要するに、「海賊」とか「倭寇」と呼ばれた人々は、海を舞台とする「悪党」なのだ。彼らについて、『海民と日本社会』のなかで網野は「玄海灘、東シナ海のような海を舞台にして活動する人々」であり、「その実体は、朝鮮半島済州島の人々、日本列島の瀬戸内海から北九州にかけての人々、さらには中国江南の人も入っており、多分、バイリンガルトリリンガルで、三カ国語ぐらいは喋れる人々ではないかと考えられて」いる、というのである。

 日本にしろ、朝鮮にしろ、共に江戸時代には「鎖国」をやっていたということになっているわけだが、しかしこの「鎖国」と称する政策の本質は何かというと、それは国を鎖ざすことでは決してなく、貿易拠点を長崎のような一ヶ所に限定し、幕府が厳重に管理することを通して、権力の側が貿易にまつわる利権を全部丸ごといただこうという、ただそれだけのことなのだ。であればこそ、このように何カ国語も操って、縦横無尽にあちこちを行き交い富を蓄えていくような存在は、権力にとって邪魔以外のなにものでもないのである。

 という訳で、もちろん取り締りたいのだが、しかしなにしろ彼らは船の操縦は天下逸品のうえ、外国語にも堪能であり、逃げる際にはよその民族に化けるのも上手い。陸の権力者は、戦争時においてさえ「やあやあ我こそは……」などと悠長なことをやっていた者たちであり、そんな連中が海上におけるこのような動きを管理・統制など出来るわけもない。制度的にどうのこうのという以前に、物理的に無理なのだ。

 という訳で、網野の言うように、かつて瀬戸内海の上関や伊方、北九州の玄海灘で生活していた、廻船人や商人、職人たちこそ、「海賊」「倭寇」と呼ばれた者たちの正体である。

 仕事柄、様々な地域を調査して歩く網野は、江戸時代からの旧家や先祖伝来の土地に暮らす人々に対し「襖を張りかえるときは、下張りを絶対にお捨てにならないで、そのまま保存していただきたい」と注意を促している。何故かというと、これら権力によって隠蔽されてきた事実というのは「実はみんな襖の下張りからわかったことなのです」というのである。

 「実は、蔵の中に伝わっている古文書と、襖の下張りに張られている文書とは性格が全く違って、蔵の中の文書は、田地や畠地に関係のある文書が多く、現在でも登記書は私共大事にとっておくわけですが、そういう性格のものが主として保存されています。しかし、襖の下張りには、領収書とか、取引のときに一度使っただけの仕切のような文書が使われています」。

 「ですから、襖の下張りを丹念に調べておりますと、表にでてこない世界がわかります。『四畳半襖の下張り』なんていうのがもしあると大変面白いのですが、そうはうまくいきません。とにかく、田地や畠に拘らない人々の生活を語る史料が、ずいぶん出てきます。中世では裏文書という、廃棄すべき文書の裏に記録を書いたために残ったものがあり、これが大変貴重です。ふつうの表に書かれて保存された文書とはまるで違った世界を、ここからはっきりつかみとることができるのです」(網野善彦『海民と日本社会』)。

 これはつまり、海を舞台にして諸外国と行った取引が、権力にばれないようにするための工夫である。ここで言われた「領収書」や「取引で一度だけ使った仕切」というのは、まさに決定的証拠なのだ。そして当時の人々は、まさにそのことをよく解っていたからこそ、万が一権力による査察が入っても切り抜けられるように、これらの文書を蔵とは別の場所に保管していたわけである。

 そして、本来こういうものを丹念に調べていってこそ歴史家といえるのだが、しかし権力の側は、このような海を舞台にしての豊かな交易の歴史を研究する学者たちを、悉く中央の学界から締め出してきたのである。網野によれば、海の民の研究の第一人者である「渋沢敬三さんや羽原又吉さんは、学界の中で全く孤立した状態で研究を進めた」という。

 これはつまり、原子力に関することと同じなのだ。周知の通り、政官財のみならず、学界においても原子力村というのは強固に形成されてきた。東京大学工学部原子力工学科の卒業生を中心として、彼らは日本の原子力学界を完全に牛耳り、そのため彼らの見解に異議を唱える学者は「否応なしに外れ者」になり、「学界の中で全く孤立」していった。そして通産省(現経産省)は、彼ら御用学者の意見のみを採用し、それにより嘘で塗り固めた原子力行政を確立したのである。しかし、網野の言葉をそのまま受け取れば、これとまったく同じことが、日本史の研究においてもおこなわれていたことになる。

 という訳で、もはや事態ははっきりしている。原子力に関して、通産省(現経産省)は、御用学者による嘘で塗り固めた情報ばかりを社会に提供し、一方で彼らの見解に異議を唱える学者は「否応なしに外れ者」となり、「学界の中で全く孤立」していったように、日本史に関して、文部省(現文科省)は、御用学者による嘘で塗り固めた教科書ばかりを教育の現場に提供し、一方で彼らの見解に異議を唱える学者は「否応なしに外れ者」となり、「学界の中で全く孤立して」いったのである。

 だいたい、教科書検定といえば聞こえはいいが、しかし、言うまでもなく、これは「検定」という名の「検閲」である。つまり、国家の検閲を通ったものでなければ、学校では教えてはいけないということだ。

 そして、国家による「検閲」のなかでも最悪といえるのが、「百姓」に関するものだろう。我々は、百姓といえば、農民のことだと思っている。しかし網野は、到る所で、行く先々で、「百姓=農民」というのはとんでもないデマであると言っている。

 網野によれば「百姓は本来、多くの様々な姓を持つ人民、一般平民を意味する語で、そこには農民の意味は全く含まれない」と言っている。要するに、百姓とは、文字通り「百の姓を持つ者たち」、つまり民衆とか人々という意味であり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、単に百姓というだけでは、職業などまったく解らないのだ。それを素直に教科書に書くとどうなるかというと、中学生や高校生などの若い感性ならば、当然ながら「かつてこの人たちはどういう職業に従事していたのだろう?」という好奇心が湧いてくる。教師だって教えなければならないだろう。そして、海運業者でした、商人でした、職人でした、ということになれば、当然今度は「この人たちはどこで誰とビジネスをしていたのだろう?」という疑問が頭をもたげる。で、そうやって色々調べていけば、いずれ必ず鎖国は嘘だという事実にぶつかる。だが、「百姓=農民」では、なんだ、自給自足だったのね、で終わりである。何の思考の発展もない。

 また、そういう訳なので、百姓一揆というのは、農民一揆であるとされてきたわけだが、これも嘘なのだ。農民が重い年貢に怒って反乱を起こしました、というのは嘘なのである。ちなみに、「一揆」というのは、本来は「心を一つにする」という意味である。という訳で、百姓一揆というのは、「多くの民衆が心を一つにして広く連帯する」ということを指すのである。連帯して抗議運動に加わるのは、運送業者だっていたであろう、商人だっていたであろう、職人だっていたであろう、彼らが心を一つにして抗議運動を展開することを「百姓一揆」というのだ。

 だからたとえば、この言葉で現代の事象を表現すると、脱原発の運動は百姓一揆である。オキュパイ・ウォールストリート運動も百姓一揆である。しかし、我々はむしろこのことを、過去に対して逆照射しなければならない。つまり、中世や近世の日本において、脱原発やオキュパイ・ウォールストリートのような、幅広い連帯の運動がいくらでも起こっていた可能性があるのに、しかし「百姓=農民」という図式によって、そういう反権力の運動が、すべて重い年貢に怒った農民の反乱にされてしまっているのである。

 もう一度百姓という言葉で現代のことを言うと、たとえば、『ミツバチの羽音と地球の回転』という映画で世界各地からオファーを受けている映画監督は百姓である。IWJというネット・メディアを主宰するフリージャーナリストも百姓である。東京生まれでニューヨークに暮らすアカデミー賞を受賞した音楽家も百姓である。彼らが広く連帯して行っている活動は百姓一揆である。それはつまり、室町時代や江戸時代に百姓一揆と言われたものだって、その担い手も、内容も、こういうものだった可能性がある、ということだ。しかし、「百姓=農民」という刷り込み一つで、すべてが隠蔽されてしまう。これは、そういうカラクリになっているのだ。

 そして、江戸時代に鎖国は行われておらず、様々な国や地域と縦横に経済連携が行われていたことを示す決定的な証拠は通貨である。通貨こそは、まさに経済活動において欠くべからざる要素であり、どのようなカネが、どのように動いたか、これを把握すれば、当時の経済のありようが何よりもよく解る。

 江戸時代の日本において、公式には、国内での外国通貨の流通はご法度だった。権力はこれを禁止していたのだ。とはいえ、あくまで建前の話であり、実は江戸時代には、日本でも外国の通貨はごく普通に流通していたのである。

 関門海峡から上関を通って瀬戸内海に入り少し行くと、二神島という島があるのだが、網野がこの島を訪れた際、江戸時代から残る旧家の蔵から、康煕通宝、乾隆通宝、道光通宝などの清朝時代の中国銭が大量に出てきたという。

 「10数年前、二神家にうかがったときに、ご当主がお蔵に入られて小さな箱をいくつか持ってこられたのです。その中に銭がいっぱい詰まっていました。大部分は寛永通宝でしたけれども、相当量の外国銭があり、その中に清の銭、つまり江戸時代の中国銭がかなり入っていたのです。康煕通宝、乾隆通宝、道光通宝などで、裏に満州文字が書いてありました」(網野善彦『海民と日本社会』)。

 そしてその後、網野は「清銭が気になり始めて、日本列島をあちこち歩き回る度に」、旧家で暮らす人々に対して、昔の銭はありませんかと訊いてまわるようになった。すると、「どこへ行っても清の銭が出てくる」というのである。とにかく「大量に清銭が日本列島に流れ込んでいる」と網野は語る。

 しかも、この清銭は、大陸と貿易をしていた沿岸部だけでなく、内陸部からも続々と出てくると言っている。なにしろ、「どこへ行っても」そうなのだ。もとより寛永通宝と共に蔵に保存されていたことから見ても、これは日本国内の事業者の間で清銭が取引されていた証拠といえる。たとえば現代において、銀行間でドルの取引がなされているように。

 かつてのアジアにおける清王朝というのは、現代の世界におけるアメリカのようなものである。強大だ。そしてそうである以上、清朝の通貨というのは、当時のアジア世界の基軸通貨のような存在として、地域間、国家間の貿易において、欠くことのできないものだった。

 そして、そもそも江戸時代の日本では、堂島の米会所において、世界最初の金融先物取引が行われているのである。それにこの大量の清銭を併せて考えれば、現代のドルに関するLIBOR(ロンドン銀行間取引金利)のようなものさえ、当時の金融業者の間に存在し、清銭の活発な取引がなされていたであろうことは容易に想像出来る。

 外国との交易など、あまりにも当たり前のことだったのだ。だから堂々と国内でも流通していたのである。これらが、「旧家の蔵」から出てくるという点に注目してもらいたい。領収書などは危ないので襖の下張りに使うなどして隠しておいたものの、通貨は蔵に保存しても問題なかったということだ。

 更に、江戸時代において民間の間で諸外国と活発な経済連携がなされていたことを示す有力なデータに、次のものがある。岡崎哲二による『江戸の市場経済 歴史制度分析からみた株仲間』のなかで、数量経済史的研究に基づき、江戸時代のGDP成長率の伸びを分析している箇所がある。ここで注目すべきは、江戸後期の数字である。岡崎は、1790年から1856年にかけての日本のGDP成長率が0・7%と計算されることを指摘したうえで、次のように言っている。

 「すなわち(中略)1790年以降、19世紀半ばに至る長期の持続的な経済成長が開始されたという結果が得られる。年0・7%という経済成長率は今日の常識では低いと感じられるかもしれない。しかしこれは、18〜19世紀の国際標準から見れば決して低い成長率ではない」

 とはいえ、人口増加率は、この時点で既に市民革命が起こっていたイギリスやフランスと、日本のそれとは違うわけである。という訳で、当時の1人当たりGDPで比較するとどうなるかというと「18世紀末以降の日本の1人あたりGDP成長率は、0・6〜0・7%となり、むしろ同じ時期のイギリスのそれを大幅に上回るという結果になる」。

 更にその後、岡崎は様々な経済的要素を緻密に分析したうえで、次のように語っている。

 「以上見てきたように、近世の日本では、(中略)同じ時期のイギリスに匹敵する持続的な市場経済の成長が見られた。近世の日本でこのような経済発展が生じた原因は何だろうか」。

 18世紀の終り頃というのは、浅間山の大噴火や天明の大飢饉などにより、農作物が致命的な打撃を受け、そこからの復興途上であり、更に19世紀に入ると、収穫期に雪が降ったという伝説まである天保の大飢饉があり、他にもこの時期は断続的に冷害に悩まされていた。

 もしも日本の人口の9割近くが農民であり、鎖国による自給自足の経済であったならば、このように農作物に甚大なダメージが多発した時期において、当時世界最高の経済大国であったイギリスに匹敵するような経済成長など出来るわけがない。当たり前のことである。

 だが、もしも当時の日本が、海の道を利用して、諸外国と盛んに経済連携を行っていたならばどうなるか? この岡崎の分析は、先程『海民と日本社会』から引用した網野の指摘、「19世紀後半、新たに西欧諸国が開国を迫ったときの日本は、決して封建的、守旧的な農業社会などではなく、すでにかなり高度に発展した産業・商業を保持する経済社会であったと考えられる。となれば、明治以後の日本の急速な近代化・工業化は、とくに不可解なこととはいえないだろう」という指摘に、数字的な裏付けを与えるものである。

 大量の清銭の存在と、江戸後期のGDP成長率は、まさに近世日本の経済のあり方を照らし出す、ミッシングリンクである。

 という訳で、もはや事態は明らかだ。当時は日本国内でもごく当たり前のように中国銭が流通していた。のみならず、諸外国との間では、実に頻繁に交易がなされ、そうして緊密に経済連携していたのだ。

 そのなかでも、とりわけ重要な貿易拠点として栄えたところこそ、日本海沿岸や瀬戸内海沿岸の地域である。

 しかし、津軽・下北から、能登・若狭、玄界灘、そして瀬戸内海の諸都市は、現代において、そのいずれの土地においても、悉くその豊かな交流の歴史を抹殺され、のみならずあまつさえ鎖国などという嘘の歴史で塗り固めたうえで、いつの間にか経済的に逼迫し、そうして見事に原発・核燃施設の立地地域となっているのである。

 襖の下張り文書のことも抹殺された。百姓とは単に民衆とか人々という意味であることも抹殺された。通貨のことも抹殺された。そうして、すべてが嘘の歴史で塗り固められた。

 ちなみに、江戸時代における諸外国との交易は、実際には網野が示唆するよりもはるかに活発に行われていたと見るべきである。何故なら、これについて研究する学者たちは、権力に手により軒並み中央の学界を追われて孤立し、満足な調査などろくに行われてこなかったため、まだまだ未発見の事実が相当にあると考えられるからだ。

 網野自身、『海民と日本社会』のなかで次のように言っている。「言うまでもなく、日本列島の海はヨーロッパ、アフリカ、アメリカの大陸に通じている。すでに日本人の足跡が南アメリカ、スペインなどにおいて、新たな史料によって確認されつつ」ある、と。

 という訳で、今後の研究の展開次第では、我々が驚くような事実が数多く明らかになってゆくだろう。

 さて、ここで明治時代において川上音二郎がやったラップ、オッペケペーの謎に迫るための下地はすべて整った。

 そもそも、このように諸外国との交易が著しく活発化したのは、鎌倉時代においてである。一方でこの時期、国内においても金融が発展し、為替手形の使用なども民衆の間でごく当たり前のこととなり、そうして大規模な貨幣流通により市場経済が、社会全体を押し上げていった。この2つの動きは、別にどちらが先というわけでもない。それぞれが互いに絡み合って、連動しながら社会のなかで動き、社会そのものを変えていった。

 そしてそのような状況において、何よりも重要な役割を担った人物こそ、時宗の一遍である。

 このシリーズの第2回目で詳細に論じたように、一遍の一行を誰よりも待ち望み、その布教活動を支えたのは、当時の新興の経済人であり、都市民だった。

 一遍は南都北嶺などの権力から徹底的に弾圧されながらも、勃興しつつある市場経済を思想的にバックアップし、そうして多くの地を遊行して行った。そして一遍の死後も、信徒たちは場所を移動しながら、旺盛な活動を展開し、その行き先々において、市井のなかで経済活動をする人々を強力に後押しした。その際、最も重要なのが北陸なのだ。

 一遍について、網野は『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と『資本主義』」のなかで詳細に論じているのだが、網野によれば、一遍の死後、信徒たちがその活動の拠り所として真っ先に上がるところこそ「越前国敦賀加賀国今湊、宮腰、越中国放生津、越後国柏崎」だというのである。

 そして14世紀に入って以降、時宗はその勢力を更に拡大し、太宰府・博多などの北九州から、瀬戸内海沿岸部、そして北は青森の十三湊へと広げるのだが、この時宗の範囲というのは、諸外国と緊密に交易を行っていた地域と見事に一致するのである。もちろん内陸部でも布教活動を行い、数多くの信徒がいたのだが、しかし網野が何よりも重要視するのは、無論沿岸の諸都市、それもとりわけ若狭湾から柏崎にかけての地域である。

 そもそもこの地域は、「11世紀から12世紀にかけて平安時代の終わりごろに、越前の敦賀や若狭の小浜などに『唐人』つまり宋人、中国大陸の人々が頻繁に来航している」のであり、彼らが唐人町と呼ばれるチャイナタウンを形成し、活発な経済活動を行っていた。

 更にその後、インドネシアスマトラ島から国書を携えた貿易船がたびたび来航するなど、若狭湾から柏崎にかけての地域は、様々な人々が入り混じる、先進的な都市だった。そうして、最先端の情報、金融、技術が集積し、非常に活気に溢れていたのだ。

 そして時宗門徒たちは、他のどこよりもこの地をこそ最も力点をおいて布教活動を行っていた。

 ここで重要なのは、一遍の行った布教のスタイルである。

 一遍の一行は、遊行に際して、行く先々で舞台をつくり、舞台上で踊念仏を舞い踊り、その熱狂する状態のなかで見る人々も熱狂に誘い入れていくという布教のスタイルをとっていた。この踊念仏は踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)と呼ばれるもので、生命力の解放をテーマとし、多くの人々と歓びを分かち合うためのものだった。男女がステップを踏みながら、頭を振り、肩を揺すって踊り、そうして、見る者を熱狂の渦に巻き込み、人々を虜にしていったのだ。

 このことだけを見れば、かつてエルビス・プレスリージェームズ・ブラウンなどが、そのステージ・パフォーマンスで人々の心を掴み、熱狂的なファンを獲得していったのとまったく同じなのである。

 そして、このシリーズの第1回目で詳細に論じたように、踊念仏というものの中身は、まずキューバやブラジルのサンテーリアを彷彿とさせるものであり、また一方ではファンク的な要素も色濃いものだった。

 更に、時宗にとって「般若心経」は極めて密接な関係を持つものなのだが、前回詳しく見たように、この「般若心経」の言葉というのは、ラップなのである。

 ラップにしても、サンテーリアやファンクにしても、いずれもアフリカを起源とする、アフリカ系アメリカ人のものと思われているわけだが、しかしこのシリーズで見てきたように、そもそも網野からして、『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と『資本主義』」のなかで、アフリカとの類比で議論を進めているのである。

 何故このようなものが生まれるのか? 第1回目で論じたことだが、歴史のなかではしばしば、在来の民俗宗教と世界宗教がぶつかるところで新たな文化が生まれる。その中心は音楽と踊りだ。だが、中世の東アジアにおいて、大陸の側ではモンゴルに征服され仏教文化が壊滅させられている。一方、日本はそうではない。民俗的なものと世界宗教が思い切りぶつかっているのだ。時宗浄土真宗はそれにより生まれた。そして、唐人と呼ばれた中国系移民や東南アジアの人々とも混じり合う若狭湾から柏崎かけての貿易港は、かつてスペイン系やフランス系から黒人などが複雑に混じり合う港湾都市だったニューオーリンズと、構造的によく似ているのである。

 このような、土俗的な世界における世界宗教の洗礼と、国際的な金融経済の波が浸透した場合、その中から新たに生まれてくる芸術というものの構造性は、世界史的に見ても、類縁性を持つのである。

 実際、網野をはじめ中世の研究者たちが表現する踊念仏の模様は、イシュメール・リードが『マンボ・ジャンボ』において、ジェス・グルー、ヴードゥーについて述べる内容と驚くほど一致する注3

 問題は、アフロ・アメリカン的なものと親和性の高いこの音楽が、当時どのような意味を持ち、社会においてどのように機能し、更にまた、その後どのような経緯を辿って明治時代にまで生き延びたのかということだ。

 前者については既に前回に述べた。問題は後者である。そしてこの問題を考えるうえで重要なのは、前回紹介した、牧村憲一川上音二郎のラップを聴いた際にコメントした次の言葉である。再度引用しよう。

 「子ども時代に覚えたオッペケペー節とはまったく違いました。これで頭をよぎったのは江利チエミのことです。若くしてジャズを歌うことが出来た彼女は、花街で育っていました。そこで朝から晩まで流れていた音楽とジャズには共通性があったそうです。洋楽的な影響と言われるリズムが、輸入されたものばかりではなかったということでしょう」。

 「洋楽的な影響と言われるリズムが、輸入されたものばかりではなかった」、これは極めて重要な指摘である。周知の通り、ジャズも黒人がアメリカに持ち込んだものの影響が濃厚にあるものであり、多くの部分において、元を辿ればアフリカに行き着く。この点では、ラップもサンテーリアもファンクも何ら変わりがない。ところが、それらと共通性を持つ音楽が、実は日本にも昔から息づいていたのだ。

 何が鍵となるのか? 牧村が示唆しているのは、女性の重要性である。

 鎖国というのは嘘だった、諸外国との豊かな交流の歴史は権力の手によって抹殺され、その意義を不当に貶められてきたということは既に明らかになった通りだが、ところで、現代において、女性というのは社会においてその権利を不当なまでに貶められている。日本では、女性の社会進出はろくに進んでいない。現代は国際化時代なのに依然として日本は閉鎖的だ、などという言説はとみに言われることだが、同じように、現代は女性ももっと社会進出すべきなのに、にもかかわらずまるで進んでいない、というのも、耳にタコが出来るほどよく聞く批判である。

 察しがついただろうか? この2つのことは、ひょっとしたら同じメカニズムのもとにあるのかもしれないということに? はたして現在広く膾炙している、中世・近世における日本の女性像というのは正しいのだろうか? もしかしたら、諸外国の交流と同じような隠蔽が、女性の問題についても巧妙になされてはいないのだろうか? 

 網野は『海民と日本社会』において次のように言っている。

 「中世のみならず日本の社会で女性が果たしていた役割は、われわれのこれまでの常識よりもはるかに大きなものだったと考えられます」。

 「女性の金融業者は普通に見られたのです」。

 「海民の女性は商業にかかわる割合が非常に高いわけで、そういう点から女性の役割にも光を当てておく必要があると思います」。

 また、網野と宮田登との共著『歴史の中で語られてこなかったこと おんな・子供・老人からの「日本史」』においても、次のようなことが言われている。

 「中世には土倉や貸上など、金融業の経営者には女性が多いのですが、これは蔵を管理するのが女性という慣習を背景にしている」。

 「家の権利についても、意外に女性は強い権利を持っています。(中略)家屋の売買については、少なくとも中世の前期までは女性の名義になっている場合が非常に多いのです」。

 当時の経済における女性の重要性に関しては、何より租税のあり方に焦点を当てた方がより解り易い。しかし、この税制についても、まずは権力による嘘を暴くことから始めなければならない。

 「教科書には中世の百姓の負担している基本的な租税あるいは地代である年貢は米であると書いてありました。今でもそう書いている教科書もあると思います。(中略)これは全くの誤りなのです」。

 「例えば、美濃、尾張岐阜県、愛知県)から東の国々、東国の百姓の負担していた年貢は絹か布です」。

 「圧倒的には絹、布が基本であり、綿や糸を出しているところもあります。要するに、繊維製品、織物が年貢になっているのです」。

 「これは大変重要なことであり、絹や布を生産しているのは女性なのです」。

 しかも生産するだけではなく、市場(マーケット)において「絹や布を売るのも女性なのです」と網野は言っている。

 どういうことか? 租税の対象である絹や布を生産していたのも女性ならば、それを市場で売っていたのも女性であり、更には金融業を経営していたのも女性ならば、不動産の売買を取りおこなっていたのも女性なのである。つまり、当時の日本の市場経済、諸外国との貿易、それらは女性が主体だったのだ。

 中世・近世において、農業以外での女性の主要な職業といえば、芸者に代表される芸能の世界というのは一般的な認識だが、しかし『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』に収録された広末保との対談において、「商人=芸能民の関係」という見出しで語られる部分があり、そこで広末が「芸能民は芸能をやったと考えられますけれども、交易の中から芸能的なものが出てくるという面がちょっとあるんじゃないか」と述べたのに対し、その少し後で、網野は次のように語っている。

 「中世の段階では実際、商人も芸能民に入るんです。商人だけでなく、呪術者、宗教人も手工業者もいまのような狭い意味ではなくて、ひっくるめて全部『芸能』という言葉でくくっている。(中略)中世では未分化なんですね。それが『芸能』という言葉で全部ひっくくられていることは1つの意味があるような気がするんです」。

 これは、「百姓」という言葉が示唆するものと似通ったものがある。百姓は農民を指すのではなく、広く民衆とか人々という意味であったように、芸能民も、別に芸者などの何か「芸」を披露する者だけを指すのではなく、商人や手工業者などかなり広い範囲を指したわけである。そして言うまでもなく、この時代、芸能民には女性が多かったのだ。芸者などは、無論全員女性である。

 ところで、この広末との対談のなかで、網野は次のような注目すべき発言をしている。

 「最近気がついたことなんですが、『下在』という言葉があるんです。これは江戸時代では鉱山の山掘りのことを指しているんですよ。ところが明治時代になると、これが『下罪』と書かれたらしい。しかし、鎌倉時代までさかのぼってみると『外財』というのが本来の言葉なんですね。それは仏教用語らしくて、『内財』というのは家の中の財産、体の中の財産で、これに対して体の外の財産という意味で『外財』。そして、さっき言った広い意味での芸能に携わる人びとはみんな『外財』を持っているとされた。しかし、だんだん『外財』が『外才』と書かれるようになり、一方では音通で『芸才』という形にまで変わっていってしまう。ところが本来全く賤視の意味を持っていなかった『ゲザイ』が『下在』と書かれて賤められる意味を持たされ、鉱夫を指す限定された言葉になる。なぜそれが鉱山だけに定着されてしまうのか、僕は常に疑問に思っていたんですが、いまのお話を伺うと遊郭と鉱山……」。

 ここには、明らかに追及されるべき問題がある。経済・芸術・女性に関する問題が、全部詰まっている。

 先程の芸能民の話、かつての芸能民は金融や技術などの仕事をやっていた者も含むというのは、つまり、経済が発展すると共に、社会においては分業が促進することにより、芸能民から金融や技術の業務が分離し(あるいは彼女たちからその業務が剥ぎ取られ)、いつしか芸能民には、文字通り「芸」を披露する部分だけが残った。そしてそんな女性たちに対し、金融や貿易で財を成した男性の視線はやがて……、というのは十分あり得ることなわけだが、それについては、網野が挙げている鉱山が大きな意味を持ってくる。

 既に述べたように、かつて日本はジパングと呼ばれ、国内には金鉱や銀鉱が数多く存在したわけだが、とりわけ注目すべきは銀である。というのも、銀は日明貿易における中国への最大の輸出品だったわけだが、それだけではなく、この日本の銀はその後も広く中国に影響を与え続けているのだ。中世末期の中国においては、租税の手段がそれまでの銅から銀へと変わるのだが、実はこれも日本の影響なのである。黒田明伸は『貨幣システムの世界史 〈非対称性〉をよむ』において、次のように言っている。

 「石見銀の需要は日本国内にはほとんどなく、もっぱら中国向け輸出であったと考えられ、また江南を中心とする中国側の銀需要は高かった」。

 「日本銀の輸入なしに江南などでの租税銀納化の進行は考えられない。この条件は、空前絶後のことである」。

 しかし、日本銀の影響は中国だけでは到底済まないのである。

 「東南アジアでは1570年頃から銀の奔流が押し寄せ、その流入は直接に現地産品の買い付け手段に対する需要を、かつてなく膨れ上がらせることになる」。

 つまり、日本の鉱山で生産された銀は、中国においてその通貨の材料となるだけでなく、中国の税制をも変え、更に今度は東南アジアとの経済の結び付きさえも強力に強めているのである。そうして、東シナ海を中心とした、一大経済圏を創出する大きな要因となっているのだ。

 かくして、黒田が『貨幣システムの世界史 〈非対称性〉をよむ』のなかで「環東シナ海銭貨共同体」と呼ぶ経済のネットワークが構築される。もっとも、権力による「公式」の記録を基にすれば、その後このネットワークは解体されたことになるわけだが、しかし網野が襖の下張り文書などから明らかにしたように、この経済ネットワークは、決して解体などされず、権力の目をすり抜けて、網の目のように結びついていったのである注4

 これはさしずめ、柄谷行人の言葉で言えば、「環東シナ海銭貨共同体」が、権力の手から脱領土化され、“社会化”したのだ。そうしてこのネットワークは、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で語ったように、まさに権力にとって「知覚しえぬもの」として存在し、活動していく注5

 だいたい、権力は自らを「善」であるとし、邪魔なものを「悪党」と呼んだが、しかし前回詳しく見たように、マーケットとは、本質的に「善悪の彼岸」において成立する。

 そして、まさにこの「環東シナ海銭貨社会体」を生み出す最初の原動力となった鎌倉時代において、人々を「善悪の彼岸」へと導いた者こそ、一遍である。

 鉱山の開発も、金融も、この時期からいよいよ活発になってゆく。一方でその際、女性の果たした役割の重要性がある。

 そして、一遍の一行の特性に、信徒の女性の多さがある。世界宗教というのは、押し並べて男性中心主義の原理によって司どられており、それは日本における仏教も例外ではなく、比叡山延暦寺が厳格な女人禁制を布いたように、圧倒的な男性中心主義であった。女性が仏門に入ることは相当にご法度だったのだ。

 そんななか、時宗の信徒には、女性・尼僧が相当数いたのである。当たり前だが、女性がいてこそ、「男女が一体となって踊る」踊念仏が可能だったのである。そしてそんな一遍のもとに集ったのは、何よりも商業民・技術者(つまり芸能民)の女性だったのだ。

 ところで、京極夏彦の『絡新婦の理』は、織物業を通して、かつて経済の主体であった女性がやがて娼婦へと転じてしまうこと、しかしその娼婦もかつて日本の民俗社会においては神聖な巫女であったのが、社会の発展に伴い淫売として賤しめられる存在になっていったことを明らかにした。織物業がかつて日本の経済社会において極めて重要な位置を占めていたのは先述した網野の見解からも一目瞭然なのだが、一方で、網野が『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』で示唆したように、鉱山と金融の面からも、京極が指摘したのと同じ構図が浮き彫りになるのではないだろうか。

 もとより、江利チエミが花街で育ったというだけでなく、芸能の世界から言えば、そもそも川上音二郎の妻でグループのヒロインであった貞奴も芸者の出身なのである。

 しかし、これらの領域で暮らす女性たちは、かつては金融などの現場で広く商業活動に従事していたのだ。それがいつしか、「性」を売る、あるいは「芸」を売る存在へと転化する。

 ガイドラインを示すと、次のようになる。

 中国系移民や東南アジアの人々とも混じり合う貿易港だった若狭湾から柏崎、これらの諸都市は、かつてスペイン系やフランス系から黒人などが複雑に混じり合う港湾都市だったニューオーリンズと構造的に似ているわけだが、これら北陸の諸都市を拠点としながら、そこで踊念仏を行いつつ、金融をはじめとする様々な商業活動を行っていた芸能民は、分業の促進に伴い、やがて「芸」を専門とする領域に特化するようになってゆき、一方で彼らの踊念仏は、まずは中世において南都北嶺から弾圧され、そして江戸時代にはあるレベルの演奏者・舞踊家が演劇人と全部まとめて河原者として被差別民扱いされ、それにより解ってないことが多過ぎるところにジャズなどの西欧の音楽が入ってくるわけである。

 だが、網野は『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』において、次のように言っている。

 「キリスト教から出てきた一種のハーモニーを持った音楽は、西洋音楽の一つの大きな基盤になっている。日本の場合は、もちろん全くこれとは別の伝統を持っているわけですが、こういう高音念仏のようなものが、もしも宗教とともに自由に成長していたら日本独特な歌謡、「讃美歌」とも言うべきものが西欧と違った形式で生まれる可能性も、あり得ないとは言えないのではないかと、私は考えています。つまり、日本の歌謡、さらには太鼓を含めてさまざまな楽器のあり方を考えてみると、おそらくどれについても同じようなことが考えられると思います。さきほどふれた、楽器を扱う人の中で賤視された人びとがあったことをふくめて、これからわれわれが考えなくてはならない重大な問題がここにあると思います」。

 「民俗の世界で生きている高音あるいは微音の問題には、実は社会の中のいろいろな動き、宗教上、政治上のさまざまな対立までからんでいるのです」。

 「そういう問題が日本の歌謡、唄、更には太鼓をふくむ楽器による音楽に、どういう影響を及ぼしたか、またそれまでの日本の歌謡や音楽には、どのような可能性があったのかを、われわれは十分考えてみる必要があると思うのです」注6

 そしてその鍵は、何よりも女性が握っているのである。
                                    (続く)


 (1)『芸術新潮』の1995年12月号には、マリー・アントワネットによる蒔絵コレクションの写真が掲載されており、その煌びやかさが非常に解り易い。

 (2)高階秀爾ジャポニスム概論」『モードのジャポニスム』より。

 (3)たとえば、『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』において網野は踊念仏のことを「民俗的な呪術信仰とも深く結びついた野性の激しい噴出」と言っているが、これは明らかにヴードゥー的なものを連想させる。

 (4)先程、清朝の通貨は、近世アジアにおける基軸通貨のようなものだったと述べたが、しかしながら、その確たる証拠はなかなか出てこないのが現状だ。というのも、海を舞台にしての交易については、日本のみならず、韓国も中国も、共に「公式の歴史」では一切認めていないのである。たとえば、網野は『海民と日本社会』において、次のように言っている。「少なくとも当面、朝鮮半島、中国大陸に生きた人々の実態が明らかにならない限り、それを十全な形で描きだすことは不可能である。しかし、彼の地については、日本列島以上の困難が待ち受けている。(中略)朝鮮半島の国制の中で海民は「賤民」に位置づけられていたといわれ、中国大陸においても、蛋民(たんみん)をはじめとする海民の社会的地位は極めて低いといわれている。いうまでもなくそこには、日本の国制にも大きな影響を与えた農本主義が、一段と強烈に作用しているのであり、その実態を明らかにすることは、それなりに困難を抱える日本の場合よりも、あらゆる面ではるかに難しいことが十分に予想される。しかし、アジア、とくに儒教の影響下に置かれた東アジアの世界の実像は、多くの国家の国制から排除されがちであった海に生きる人々の実態を根底から捉えたとき、はじめて正確なものとなりえるであろう」。ともかく、網野が襖の下張り文書や漂流民の日記などから明らかにしたように、近世における東アジア・東南アジアにおいて、活発な経済活動が展開されていたことはまず間違いなく、そして清銭が当時の日本において大量に海の向こうから流れこんでいたことも確実なのだ。いくら権力の側が否定しようと、経済連携がなされていた物的証拠は厳然として存在するのであり、そうである以上、清銭が、各地で展開された商取引において、まさに統一的な価値の尺度として機能したことはほぼ間違いないと思われる。

 (5)鎖国は嘘だったということに始まり、これら一連のことが何故これまで研究者たちによって言われてこなかったのだろうか? その大きな理由は、研究者たちの間にはびこる知識のたこ壺化である。つまり、基礎教養の部分を除けば、自分の専門領域の外の分野に関してはまったく無知である研究者があまりにも多過ぎるのだ。この稿で挙げた、網野、小林、黒田は、それぞれ専門領域がまったく違う。しかし、鎖国は権力による嘘ではないかという視点のもとに彼らの本を読めば、この稿で論じたような、非常にスケールの大きい経済連携の像というのは、必ず浮かび上がってくる筈である。夏目漱石に「職業と道楽」というタイトルでなされた講演があるが、このなかで漱石は、現代においては、職業がとにかく細分化し、知識の専門分化が著しくなった結果、自分の専門領域以外のことはまるでよく解らない不具ばかりが社会に存在するようになった、とにかく今の世は不具ばかりだと再三再四語っている。一方で漱石には、「素人と黒人」という論文がある。「黒人」とは「玄人」のことなのだが、この論文において言われているのもまさにそのことだ。要するに、一般的に玄人、つまり専門家というのはその道に熟達したプロフェッショナルとして尊敬されているが、しかし漱石によれば、実のところ、彼らはその道の固定観念に縛られ、皆イリュージョンに酔わされており、大事なものをどこかへ振り落として気がつかずにいる者たちである。「だから黒人は局部に明るいくせに大体を眼中に置かない変人に化けてくる。そうして彼らの得意にやってのける改良とか工夫というのはことごとく部分的である。そうしてその部分的な改良なり工夫なりが豪も全体に響いていない場合が多い。大きな眼で見ると何のためにあんなところに苦心して喜んでいるのか気のしれない小力細工をするのである。素人は馬鹿馬鹿しいと思っても、先が黒人だから遠慮して何も言わない。すると黒人はますます増長してただ細かく細かく切りこんで行く。それで自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高いところから見下ろすとこれは進歩でなくって、堕落である」。こうして、漱石の言う「不具による堕落」が研究の現場において跳梁跋扈した結果として、権力の仕掛けた嘘を誰も見抜けず、ただ自分の専門領域のドグマを追う者ばかりがはびこることとなる。だから、鎖国をしていたなどという、近世における経済のありように対する隠蔽も見抜けないのだ。

 (6)東アジアとアフリカとの関係で言うと、既に明の時代、鄭和の艦隊はアフリカ東海岸まで行って、そこで取引を行っている。そもそも、日本は古代から、中国を通じてはるか西方の文化を国内に摂取してきた。たとえば、天平文化にはイランの文化の影響があるが、それは当時の中国にササン朝ペルシャのイラン人が多数暮らしていて、それが日本にも入って来ているのである。異文化を取り込む日本人の巧みさは尋常ではなく、それは本文で述べた天守閣のことでも明らかだ。また食文化にしても、たとえば日本の小松菜の元は地中海沿岸の南ヨーロッパであり、それが鎌倉時代に中国との交易を通じて日本に入ってきたのだ。つまり、天平期の器にしても、城郭建築にしても、食にしても、その他なんであれ、アラブやヨーロッパの影響のもとに成り立っているものは幾らでもあるのである。そうである以上、どうして音楽とダンスだけその影響から免れることが出来ようか? 日本は中国と緊密な交流を持ってきた、これは誰も否定出来ないことなわけだが、しかしその中国人は、ヨーロッパやアラブやアフリカと直接交流をしていたのであり、したがって彼ら中国系の移民を通してそれらは日本にも伝わっているばかりか、そもそも、日本にやってきた中国からの移民は、大陸の政治状況を受けて、もはや中国に住めなくなった、あるいは自ら中国に見切りをつけた者たちなのである。そして実は、室町時代の後半には、黒人も日本に来ている。宣教師が連れてきた奴隷としてなのだが、しかしその黒人も、日本において差別はなく、日本の人々は彼らと積極的に交流を持っていた。一方でこの時期、西日本ではカトリックがかなり浸透している。それはつまり、讃美歌も伝わっているということだ。そして、たとえば出雲の阿国は、このような状況のなか、西日本から出てきたのである。彼女の踊りは非常にセクシュアルなものだったと伝えられているが、大変な評判で、京都の御所や江戸城にも招かれて公演を行っているものの、3代将軍家光の治世において、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃とまとめて禁止されることになる。この禁止は、当然政治的なものである。

 *なお、「一遍あるいはニーチェ 推理小説としての音楽」と題したこのシリーズに、発表の場を提供してくださる媒体があれば、歓んで応じます。ウェブ・マガジン、電子書籍などを問わず、広く読まれることは何より望むところです。