一遍あるいはニーチェ、推理小説としての音楽(4)後篇

 網野によると、士農工商というのは、「明治政府が戸籍をつくるとき、士農工商に分けて」人々を把握し、管理したのだという。とするならば、士農工商をつくったのは、明治政府ということになるのではないか? 当然宮崎もこれと同じ疑問を持ったようで、宮崎はすかさず「士農工商をはっきり分けたのは明治政府だったのか(笑)」と驚きを隠せず、そして網野は即座に「そういえますね」と断定している。

 という訳で、鎖国していなかったものを、「鎖国」していたことにしたのも明治政府であり、国内に外国通貨が普通に流通していたのを、「流通していなかった」ことにしたのも明治政府であり、百姓とは農民のことではなく、広く民衆とか人々という意味であったのを、すべて「農民」にしたのも明治政府であり、民衆はみんな刀を差し、鉄砲を持っていたのに、その民衆を「非武装」にしたのも明治政府であり、そして士農工商という厳格な身分制度などなかったものを、「士農工商による身分管理」にしてしまったのも、やはり明治政府なのである。

 つまり、これらの嘘は、すべて明治政府が社会を支配するために形成したものなのである。

 という訳で、そうであればこそ、あるいはそうであるが故に、明治時代初期における自由民権運動において、自由を求め抗議する市民たちが、ストリート・ミュージックの最たるものである川上音二郎のラップをもって対抗するのは、まったくもって理に適っているのであり、当然といえるものだ。

 どういうことかというと、まず第一に、そもそも江戸時代、文化の統制を目論む徳川幕府の政策に関して、全国の諸藩すべてが言うことを聞いて規制したなど、ありえるわけがないということだ。どうせばれやしねえよと、そうして民衆は船を出して諸外国と貿易をしていたというだけでなく、刀を差して往来を行き来し、外国銭も流通していたわけで、そうである以上、刀や外国銭に比べれば、髭などいったいどうしたというのだ? ヘアスタイル、それがどうした? それよりも刀を差している方がはるかに危ないだろう、そう考えるのはいたって普通というものだろう。つまり、民衆だけでなく、藩レベルにおいても、どうせ幕府の監視なんてここまで目が届くわけねえよ、そうシラを切っていたところはいくらでもあっただろうということだ。事実、貿易に関しては、藩の政策として、藩ぐるみで行っていたところはいくらでもあるのである。たとえば、『海民と日本社会』において、網野は次のように言っている。

 「むしろ密貿易をやっていた藩が明治維新に大きな力を持ったのではないでしょうか。薩摩の密貿易は大変なもので、昆布をわざわざ北陸の能登、越後まで買いに来ており、それを琉球に流して大儲けしていたということもありますし、長州はたぶん朝鮮と貿易をやっていたでしょうし、肥前には長崎がありますし、土佐も何かやっていたに相違ないと思います。そうでなくては、坂本竜馬のような男は出てこないと私は思います。そういう意味で、全く違う角度から日本史像、日本社会像などを描くことは十分可能になりつつあると思います」。

 一方で彼は、『歴史と出会う』のなかで、自由民権運動についても言及している。「自由民権運動のときでも、秩父事件では博打うちが先頭に立っていたでしょう。田中栄助という総裁は博打うちですね」と語ったうえで、更に「博打うちは悪党につながる」とも言っている。そしてこの「悪党」は、海上交通のネットワークのなかでは「倭寇」「海賊」と呼ばれるわけだが、網野は『海民と日本社会』のなかで、海を舞台に稼ぐ博打うち(海民)の話として、彼らが「売り場(売庭)」という名の「縄張り」を重要視することにふれたうえで、更に次のように言っている。

 「熊野の海賊が尼崎から竃戸関(上関)までを縄張りとして認められたというような感覚は、田畠の所有に慣れている今のわれわれの感覚には残っていないのです。博徒の世界には『シマ』などのかたちで今でも残っていると思いますが、(中略)陸の領主、陸の国家はこういう所有のあり方を認めるのは具合が悪いため、みな潰していきますので、こうした所有のあり方は殆ど消えてしまいました」。

 「それが非常にいきいきと生きていたのはかつての海の世界で、『倭寇』と言われる人々は玄界灘東シナ海を縄張りとして動いていたことになると思うのです」。

 つまり、現代においてヤクザの言う「シマ」とは、元々は海上において倭寇たちが縄張りとする「島」のことを指したわけだが、重要なのはそこではなくて、自由民権運動の主力を担った勢力の1つは、かつて「倭寇」だった人々だということである。

 ところで、自由民権運動が起こった1880年代における政府とは、もちろん薩長による藩閥政府であり、自由民権運動とは、この薩長による支配に対して、土佐の人々が反乱を起こしたという面がかなりあるのは周知の通りであるが、ここで重要なのは、運動の指導的役割を果たしたとされる板垣退助ではなく、坂本竜馬である。無論、坂本が幕末に暗殺されたことは承知している。しかし、それでも尚、重要なのは板垣というより坂本なのだ。というのも、坂本竜馬という人物は、何よりも商船を組織して貿易で活躍した経済人なのである。つまり彼は、優れて倭寇的な人物なのだ。

 どういうことかというと、板垣という固有名を中心にして自由民権運動を見ると、それはどうしても中央で政争に敗れたところから来る政治的な動機のもとに行っていたように見えるわけだが、そして実際、民撰議員設立建白書は政治的な要求ではあるけれど、一方で、坂本を見て育った土佐の若者たちによる自由民権運動という観点から見ると(実際そのような若者たちは一定数確実に存在した)、ここでの「自由」とは、経済的な自由主義を動機として、それを中央の政治に要求したといえるのである。もちろん、ここで言う自由主義とは、いわゆる市場原理主義的なものではなく、単純に国家の統制的な経済政策からの自由を求めるものである。そしてそれは、「倭寇=博打うち」が望むものと完璧に一致する。

 そもそも、坂本竜馬という人物自体、決して天才ではないのだ。坂本に言及した網野の言葉を思い出して欲しい。網野は、土佐は必ず貿易をやっていたに違いない、そしてその下地があってこそ坂本のような人物を輩出しえたと言っているのである。

 そもそも貿易をやっていたのは雄藩だけではなく、全国各地で行われていたのである。そして『歴史と出会う』における網野と宮崎との対談のなかで、次のようなことが語られている。

 網野「江戸時代の終わりの日本人の庶民のもっていた職務的な能力、商業の帳簿の組織などは非常に高度だったと思いますよ。だから、ヨーロッパと接触したとき、縦の字をパッと横に直してしまう。その証拠に、商業関係の用語はみんな在来語でしょう」。

 宮崎「ええ。『手形』とか『為替』とか、翻訳語じゃないですね」。

 網野「株の用語の『寄り付き』や『大引け』『取引』『相場』『切手』など、みな古い言葉なんですよ」。

 これらの用語は、海民たちによる、貿易や金融業務で当時から既に使われていたのであり、それは近代ヨーロッパとの接触以降においても十分通用するものだからこそ、いまもって多用されているのである。これらは、中世から江戸時代を通じて、海民あるいは倭寇たちによって育まれ、その伝統のなかで継承されてきたのである。そして坂本竜馬は、その当然の帰結として出てきたのである。

 突き抜けた才能の持ち主だが、決して突然変異的に現れた天才ではなく、十分な下地があってのものであるということは、YMOを例にとって出雲の阿国のところで述べた通りだが、そうである以上、YMOの後の世代から、高野寛小沢健二小山田圭吾七尾旅人などが現れたように、土佐の坂本竜馬の後にも、その精神を受け継ぐ者たちは当然いたのである。それはまた、海民、あるいは倭寇の精神の後継者たちである。

 彼らは、自由が侵害されることを何よりも嫌う。そうであればこそ、彼らが薩長藩閥政府に抵抗するのは当然といえる。というのも、そもそも、経済における中央政府地方自治体の癒着とは、薩長がつくったものである。何故なら、江戸時代の国内経済は完全に地域主権型であり、中央と地方の癒着などが生じる余地はない。これらは薩長がつくったものなのだ。

 という訳で、たとえばこの夏の山口県知事選挙の際、山口県は日本で最も保守の強い保守王国と言われた。いまだ士農工商の名残りが強いまで言われたほどだ。そうして脱原発派の期待を受けた飯田哲也候補は、健闘したものの敗れた。またその直前にあった鹿児島知事選挙においても保守の壁は厚く、向原祥隆候補は敗れた。脱原発派はこの2つの知事選によって脱原発薩長同盟を、と息巻いていたのだが、それは一旦頓挫したかたちである。

 だが、山口や鹿児島で保守の基盤が強いのは当たり前なのだ。何故なら、士農工商をつくったのも、経済における中央と地方の癒着の構造をつくったのも、薩長だからである。彼らが東京の政界に進出し、産業資本主義によって生まれた利権を手中に収め、その分け前を地元長州や薩摩に還元したのが癒着の始まりなのである。また士農工商にしても、それは薩長がつくったものである以上、その御膝元である山口と鹿児島で士農工商の名残りが残っているのは当然といえる。という訳で、山口や鹿児島で保守が強いのは当たり前なのだ。

 そして、このように自由のない、薩長藩閥政府による統制的な経済政策に対して当時アンチを投げかけたのが、土佐の若者たちであり、元倭寇だった博打うちたちである。板垣という固有名でなく、坂本という固有名でもって自由民権運動を見るということは、具体的にはこのような意味においてである。ここで動いていたのは、坂本の精神なのだ。

 このことはまた、先程の山口県知事選において飯田が、原発の危険性のみならず、原発及びそれに象徴される数々の利権を批判し、癒着と手を切った自立的な経済を提示したが、実は、これこそ自由民権運動で唱えられたものである。そうであれば、当時の人々が、ストリート・ミュージックの最たるものである川上音二郎オッペケペーをもって抗議運動を展開したのは当然なのだ。

 というのも、網野は鶴見俊輔との対談集『歴史の話』のなかで、江戸時代のこととして非常に興味深いことを言っている。どういうことかというと、「南の海を通ってアメリカ大陸に行ってる人がいる。17世紀初頭、1606年、ペルーのリマに20人の日本人がいたことが確認されていますけど、実際はそんなものじゃないと思います。リマだけで20人ですから、もっともっとたくさんの日本人が南米まで動いているはずです」と語り、一方では、「1800年代に入ってすぐですが、(中略)アメリカの捕鯨船の航海日誌によると、松前(北海道)にアメリカの水夫が上陸して、バンジョーを弾いて村民と楽しく踊ったり歌ったりしたというんです。こういうことは絶対に村はお上には報告しないんです。だから日本側の文献には残らない。そういうケースがたくさんあって、襖の下張りみたいなものに、チラチラ見える」というのだ。

 という訳で、江戸時代において、日本の人々は、ラテン・アメリカや北米の人々ともごく普通に交流しているのである。しかも、彼らと一緒に音楽を楽しんでいる。となれば、彼ら外国の人々がいないところでも、これは面白いから俺たちだけでやってみようぜ、という気持ちには当然なるわけで、しかしあいつらが使っていた楽器がない、ということになると、そこは口で歌ってみようということにもなるだろう。そして、もし楽器の部分をアカペラで代替したならば、そこからラップに至るのは決して遠くないのである。

 そもそもこの時代は、被差別民に処せられた楽器演奏者たちが大勢いて、市井の人々は、河原者と呼ばれたこれら楽器演奏者との接触は許されていなかった。つまり、ただでさえ、楽器がないからそこは人の声でやろう、という文化が生まれる土壌は潜在的にあるわけで、そうして声でビートを奏でることに慣れていたならば、それはすなわちヒップホップの入り口に立っているといえる注8

 そして、川上音二郎という人物は、福沢諭吉のもとで新しい「実学」を学びつつ、土佐の人々と反権力の運動を行いながら、つまるところ諸国を漂泊していたわけで(これはまさに中世以来の芸能民の在り方そのものなのだが)、そうである以上、各地を渡り歩く過程で、彼がこのような音楽を蒐集し、それを自分のものにしていった可能性は十分あるというものだ。

 これについては、更に次のことも重要である。陸の博打うちは、当然遊女とつながりがあるわけだが、一方で、土佐の若者たちも、元雄藩の志士である以上、彼らも遊里や座敷に通っていた。

 そして、明治後半に行った欧米ツアーで人々を虜にした舞踊家川上貞奴も、花子も、共に元芸者である。更にまた、前回も言及した江利チエミも、色街においてジャズに類似した音楽を聴きながら育ったのであり、しかもその色街で流れていた音楽は、輸入されたものではないのである。

 川上音二郎自身、自由党に入党し、自由民権運動を闘った人物であるが、しかし音楽に関して言うと、遊里や座敷、とりわけ吉原を避けて通ることは出来ない。もとより、川上音二郎も若い頃は一時吉原にいたのである。

 そして、これまで「鎖国」や「百姓」や「士農工商」などについてその嘘を暴き、色々と隠蔽のカラクリを見てきたが、しかしある意味では、最も固定観念に捉われ、真実が隠蔽されてきたのは吉原に関してであるとも言えるのである。そもそも吉原とはどういう意図のもとに作られたのか? この点については相当に曲解されてきた。

 江戸時代の海外貿易について、家康が意図したものと、家光が行ったことはまるで別ものであるように、吉原に関しても、家康の意図と、家光の意味付けはまるで違うのだ。吉原というと、一にも二にも娼館というイメージが定着しているが、元々の吉原は決して娼館という意味合いはなかったのである。という訳で、隆慶一郎と網野を補助線とし、その真相に迫ってみることにする。

 まず吉原の成り立ちだが、これは家康がその晩年に『神君御免状』という証文を通して、遊里の建設の許可を与えたことに始まる。当初、この遊里は吉原に建設されたのではなく、まずは日本橋に作られた。その後、家光の治世下において、一旦夜間の営業が禁止され、4代家綱の代になると再び夜間営業は復活し、あわせて日本橋から浅草の吉原に移転する。

 では、いったいどのような女性たちがこの遊里に入ったのだろうか? 日本橋において始まった当初、この遊里に入ったのは、かつて公界往来を自由に漂泊し、旅から旅を続けていた芸能民たちである。ところで、隆慶一郎によると、「遊女」の「遊」とは、もともとは「漂泊」という意味であったという(これは、「遊行」という言葉を例にとるとよく解るであろう)。つまり「遊里」とは、「漂泊民の里」という意味なのだ。ちなみに、前回見たように、中世において芸能民という語は、商業民や手工業者なども含む、広い意味を持っていた。という訳で、日本橋の遊里に入った女性たちは、単に芸能に秀でた者たち、というだけではない。後で詳しく見るが、様々なことに通じている女性たちである。

 ところで、家康は芸能への理解が深く、出雲の阿国もその評判を聞いてわざわざ城に招いたほどだが、彼は往来において盛況を博する市井の芸能を非常に好んでいた。そもそも、家康は一向宗徒である。一方で、江戸開府以降、家康が最も寵愛し、常に傍に置いていた女性といえば、松平忠輝の母としても有名な茶阿の局だが、網野によると、名前に「阿」号、「阿弥」号がつく女性は、時宗門徒を意味するという。つまり、家康と茶阿の局というのは、かつて公界往来の自由を担保していた二大勢力である一向宗時宗に帰依するパートナーなのだ。

 そして、ここに彼がブレーンとして重用した人物を見てゆくと、尚更あることが明らかになる。経済政策において、家康が最も信頼を置いたのは大久保長安だが、この大久保は鉱山開発のプロである一方で、若い頃は猿楽師として武田信玄に仕えていた芸能民でもある。最もいかがわしいのは天海であろう。この僧侶は60歳を過ぎて突然家康に召抱えられるわけだが、その経歴は全くの謎であり、実は明智光秀であるとか、明智の嫡男の明智秀満であるとか諸説入り乱れてまるで確定出来ないわけだが、天台宗の最高峰というのは確実に眉唾であり、どのような出自を持っていてもおかしくない(ひょっとしたら、朝鮮や中国の者である可能性さえあるだろう)。それどころか、家康のもとには、そもそもアジアの者ではないイギリス出身のウイリアム・アダムスと、オランダ出身のヤン・ヨーステンがいるのである。これは、一国の政治の最高峰のブレーンとしては、かなりムチャクチャな陣容である。しかしここに時宗門徒である茶阿の局まで加えると、家康の傍の様子は、意外なことに、さながら倭寇的状況と呼ばれたかつての公界往来の縮図といえるのだ。

 しかし、これは決して驚くに値しない。それどころか、家康の経済政策を考えれば、むしろ当然というものだ。というのも、彼は 朱印船貿易を積極的に奨励し、それにより当時日本の人々は、中国・朝鮮はおろか、タイやバングラデシュ方面にまで進出し、各地で続々と「日本町」を形成してビジネスを行っていたのだ。つまり家康は、中世においてあった倭寇的状況を、より一層拡張しようとしたのである。また、そうであればこそ、人材面においても、倭寇的な人材を積極的に登用したのである。大久保長安はまさにその筆頭と呼べる存在だ。そもそも、猿楽師であり且つ鉱山開発のプロでもあった彼を見ると、かつての芸能民が、商業民や手工業者など広範な意味をもって用いられたことが実によく解る。

 という訳で、江戸開府後の家康は、倭寇的状況あるいは公界往来の色で徹底的に彩られているのである。そしてその家康は、一方で当時最高峰の舞踊家であった出雲の阿国を城に招いてもいる。倭寇的で公界を愛する一向宗徒であるならば、かつて往来で自由に展開された諸芸能に対し深い理解があるのも当然というものだ。家康は、このような芸能や芸術が大好きだったのだ。そしてその家康が「神君御免状」という伝家の宝刀を付与するほど思い入れのあった日本橋の遊里(漂泊民の里)とは、どのようなものだったのか? この遊里は、「神君御免状」を付与されただけあって、ここに入った女性たちは、数々の芸術・芸能に通じている女性たちのなかでも、最高峰の人材が集められた。

 という訳で、もはや明らかだろう。この日本橋の遊里とは、元々は諸芸術・芸能の「殿堂」だったのである。別の言葉で言えば、音楽・舞踊などに関する総合的なロイヤル・アカデミーである。

 要するに、これは性格的には、パリのオペラ座アカデミー・フランセーズ、あるいはキューバ国立民俗舞踊団のようなものなのだ。それが元々の意図なのである(だから「神君御免状」が付与されたのだ)。

 だいたい、「神君御免状」には、色街のことなど一言も書かれていない。当たり前である。なんで最高権力者である家康が、色街の建設許可を出すのにわざわざ「神君御免状」などという御大層なものを付与する必要があるのか? 色街なら、単に許可するで済むことなのだ。だが、芸術・芸能の「殿堂」となれば話は別である。

 しかし、こう言うと、ではそれが何で客を取って寝るんだ? という疑問が湧くかもしれない。これに関する解答は二つある。まず第一に、イエズス会の宣教師や朝鮮の外交官の手記などで見たように、中世の女性たちは、芸能民から尼僧に至るまで、客を取って寝ることはごく普通のことだったのだ。フツー、と言った方がいいかもしれない。別に特別のことでもなんでもなく、それは単に習慣であり風俗だったのだ。

 第二に、パリのオペラ座といえば、確かに20世紀においては舞踊芸術の最高峰であり、オペラ座バレリーナたちは最高の芸術家である。だが、19世紀においてはどうだったろうか? これが実は、吉原の遊女と同じなのである。たとえば、鈴木昌の『踊る世紀』には、次のような記述がある。

 「パリのオペラ座にバレエ鑑賞に出かけたのは芸術愛好家ではなく、アポネ(年間予約者)と呼ばれた、鼻の下を長くしたオジサンたちだった。(中略)当時のパリでは、バレリーナといえばほとんど娼婦みたいな存在だったのである」。

 「ほとんど娼婦」どころか実際客と寝ていたのである。何もオペラ座に限った話ではない。19世紀に、オペラ座からほど近いところに建設されたバレエ専門のホールであるエデン劇場も同様である。これについては、ゴーチエ/マラルメヴァレリー『舞踊評論』に収録された渡辺守章の論文、「マラルメあるいはバレエによる主題と変奏」から引用する。

 「段落〔2〕は、(中略)エデン劇場の裏面とも言うべき、バレエ劇場と同時代のセックス産業との接続に触れる。(中略)エデン劇場の売り物の1つは、チュチュを切り詰めて下半身を露出した踊り子のエロチックな魅力だったから、20世紀後半で言えば、クレイジー・ホースのショウかなにかを見るようにして、(中略)性的に興奮させられた愚かな客が、その情欲の捌け口を求めて……」。

 という訳である。しかし、現在において、たとえばオペラ座のことを娼館だと言う者はいない。実際、当たり前だがオペラ座は娼館という意図で作られたものではない。日本の江戸時代初期にあたる17世紀においてバレリーナをめぐる状況がどういうものであったのか、渡辺守章は『舞踊評論』収録の別の論文「テクスト・踊り―視線」のなかで次のように言っている。

 「17世紀フランスでは、舞台上の公開の踊りが、王侯貴族の楽しみの頂点に位していて、かつ町人階級にもその熱狂が共有されており、しかも文学や音楽、そして装置と劇場を二つながら含む建築術が参加するといった、文字通りの『総合芸術』をなしていた」。

 家康が意図したものも、要はこれと同じである。ちなみに、オペラ座の正式名称は「王立音楽アカデミー」であり、17世紀において、この「王立音楽アカデミー」に勅許が与えられているが、これは家康が与えた「神君御免状」とつまるところ同じものである。

 だが、無論違いはある。たとえば、バレリーナと違って、吉原の遊女たちは、舞台では踊らない。しかし、これに関しては、キューバ国立民俗舞踊団などの方が近いだろう。この舞踊団に限らず、キューバン・フォークロアというのは、何よりもパティオ(中庭)で、あるいは単なる室内において、パーカッション・アンサンブルと共に踊られる。この点では、吉原に近いと言える。

 ともかく、吉原は、元々は娼館ではなかったのだ。とりわけ遊女の最高峰である「太夫」についてはそうである。このことに関して、隆慶一郎は『吉原御免状』のなかで次のように語っている。

 「ちなみにいう。この頃の太夫は決して売女ではない。いわば『どこにもいない女』だった。諸大名の奥向き、公卿の子女とも、これほど学識をもち、遊芸の道に達した女性はいない。琴、鼓、三味線にすぐれ、茶道、香合、立花に通じ、和歌、徘徊、絵画をよくした。『八代集』や『源氏物語』を手放さない者もいたという。いわば、時代の最高教育を受けた『スーパー・レディ』だったのである」。

 という訳で、吉原の遊女たちにも「総合芸術」は十分可能なのだ。なにしろ選りすぐりの女性ばかりを集め、彼女たちを「スーパー・レディ」にすべく最高の教育を施しているのである。徹底的な英才教育を行うオペラ座と、何ら変わりがない。

 ちなみに、このような女性とは、いかにも家康が好みそうである。歴代の武将のなかでも家康は突き抜けて無類の女好きだったことはつとに有名だが、要するに、日本橋に建設された遊里とは、家康の趣味を惜しげもなく全部ぶち込んだものでないかと勘繰りたくなるような代物だったといえるだろう。まさに「国父」たる絶対的権力者だけが成せる業である。

 ところで、この時代に、こんな凄い女性がどうやって育ったのか、このように学識も豊かで諸芸術に秀でた女性はそういないだろうという疑問があるかもしれないが、しかしこれについては、イエズス会の宣教師や朝鮮の外交官の手記がその存在を担保するだろう。思い出して欲しい。彼らは、日本の女性たちの学識の豊かさに感嘆していたのである。もちろん芸に秀でていたことは言うまでもない。網野は『日本論の視座』において、当時諸国を遊行していた女性たちのなかには、宮中や貴族の屋敷に招かれ、そこで芸を披露する例も数多く見られたといっている。

 また、隆によると、「女郎」という言葉は、宮中の「上蟖」に由来し、それがなまったものであるという。つまり「女蟖」であって、「籠に乗る女」である。という訳で、遊女は、苦界に住む下賤な淫売などでは決してなく、その位は社会的に非常に高かったのである。

 一方で、吉原の遊女たちは「花魁」とも呼ばれた。この呼び名が定着したのは18世紀になってからだそうだが、しかし「花魁」を「おいらん」と読むことの由来については諸説入り乱れている。一方で、漢字の方は別である。「魁」とは首領などの意味であり、よって「花魁」は、「花のトップ」のことを指す。問題は、この「花」とは何かである。いわゆる「高嶺の花」の「花」なのか? 現代においても、「両手に花」など、「花」は女性を指す一種の隠語として使われている。しかし、元々彼女たちは中世の芸能民である。中世において、芸能の世界で「花」といえば、それは1つしかない。

 世阿弥は男であるが、しかし「阿弥」号が付いているように、彼は時宗門徒である。そして世阿弥の主著といえば、それは何といっても『花伝書』である。最高峰の学識を持ち、諸芸術の達人である吉原の遊女たちが、『花伝書』を読んでいないなどということはまずありえない。

 そもそも、世阿弥自身、元々は公界往来に身を置く芸能民だった。そこを、足利義満が京の市中に出た際に少年・世阿弥の演舞を観てその才能に魅了され、義満の庇護のもとで頂点に立ったのである。だが、その世阿弥も義満という「国父」の庇護を失うと、途端に不遇をかこい、やがて無実の罪を着せられ島流しに遭うことは既に述べた通りである。だが、世阿弥とは、元々は公界往来で活動する芸能民だったのだ。つまり、吉原に入った女性たちと同じなのである。

 とはいえ、何はともあれ、吉原では、秘事が行われるわけだが、しかし「秘事」とは元々は何なのか? 当初から男女の秘め事を指すものだったのか? 実は、『花伝書』には、秘事に関して次のような記述がある。

 「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるが故なり。しかれば、秘事ということを顕はせば、させることにもなきものなり」。

 当たり前だが、遊女たちの「花」としてのプライドは、高貴な娼婦というところにあるのではなく、その芸術・芸能のレベルの高みにあるのだ。たとえ客と寝るにしても。そして、まさに芸を披露する相手と寝る以上、その芸について、その「花の秘密」を明かすだろうか? そんな遊女がいるわけがない。それは「秘事」である。

 という訳で、吉原の「花」とは、『花伝書』の「花」であろう。また、吉原の「秘事」とは、『花伝書』の「秘事」であろう。そうであるならば、吉原をめぐる数々のミステリーは、すべて一本の線で繋がる。

 ちなみに、パリのオペラ座において、主役の踊り手のことを、エトワールという。エトワールとは、「星」という意味である。つまりスターだ。そうであるならば、吉原の最高峰が「花」であったとしても、何の不思議もないというものだろう。

 しかし、このような吉原は、徳川幕府の陰謀によって、淫売たちの暮らす「苦界」へと貶められた。こうして、公界の殿堂として吉原の真実は、歴史の闇の奥深くへと隠蔽された。そしてこの隠蔽に更なる追い討ちをかけたのは、明治政府である。歴史を書き換えたのは、既に再三見てきたように、何よりもこの権力なのだ。

 ちなみに、吉原は元々は色街という意図のもとに作られたのではないということを見抜いた最初の者こそ、他ならぬ隆慶一郎である。網野は、「一度、ご教示に与りたかった」というほど隆を尊敬しているのだが、それは何よりもこの吉原のことに由来する。

 ところで、その網野は『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』の第3章を「音と声」と題して、音楽について長々と論じているのだが、その冒頭において、彼は次のように言っている。

 「本当の人間の生活に即した歴史を考えるとなると、(中略)色も香りもなくてはならないし、『音』の世界も歴史の中に取り込んでいかなければならない。そこまでしなくては、本当に生きている人間の歴史を描くことはできないのではなかろうか」。

 これはまさに慧眼である。音楽のない人間生活などあるわけがない以上、音楽のない歴史など到底歴史とはいえないのだ。だが一方で、「文献では音は聞けない」というのも事実である。当時の音楽について、録音も譜面もなければ、文献も頼りにならない。だが、明らかなとっかかりは存在する。

 吉原が、音楽・舞踊に関するロイヤル・アカデミーであったならば、見る者が見れば、宝のような史料が眼前にあるともいえるのである。それを行った偉大な先達が隆慶一郎であり、彼が小説で描く描写は確かな史料に裏打ちされたもので、信頼するに値するのみならず、非常に想像力を刺激するものだ。

 しかも、吉原の音楽的な謎を解明することは、直接現代に繋がりうるのである。

 隆によると、当初日本橋の遊里に入ったのは、具体的には傀儡と呼ばれる「民族」の女性たちであるという。この傀儡とは、人形回し、つまり人形を使って芸をする人々のことだが、しかしそれは彼女たちの素顔のほんの一面に過ぎない。

 傀儡に関しては、網野も『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」や『日本論の視座』などで詳細に語っているのだが、知れば知るほど、このような人々がかつて本当にこの日本にいたのかと驚くほど、現代の常識からは到底捉えられない人々である。

 しかし、これまで数々の隠蔽についてその詳細を見てきたように、権力の側は、自分たちにとって都合の悪い人々であればあるほど、その本質を歪め、差別の対象としてきたのである。そうして、単一且つ均質な日本民族という嘘を捏造してきたのだ。そうであればこそ、傀儡については、そのような諸矛盾が集約しているといえるものだ。

 隆によると、日本橋の遊女となる傀儡の女性たちは、かつては主に紀州を中心に活動した人々であるという。紀州といえば、家康が御三家の一つを置いたところであり、それ以前においては、信長にしろ、秀吉にしろ、その制圧に大変苦労した地域でもある。隆は『吉原御免状』のなかで、紀州について次のように言っている。

 「紀ノ国は中世を通じて自由の砦だった。所謂無主無縁の徒を暖かく受け入れ、世俗の
権力から己を強力に守る公界の集まりだったのである」。

 一方で彼は、ルイス・フロイスの手記の中から、紀州について言及した箇所を引用している。ルイス・フロイスが見た紀州とは、次のようなものである。

 「紀ノ国は、悉く悪魔を崇める宗教に献じられた国である。国内は四つか五つの宗派があり、それぞれが一大共和国の如きもので、主旨の古いため、常に不可侵で、戦によって亡ぼすことが出来ない、多数の巡礼が絶えず同地に赴いている。この共和国の一つは高野山であり、第二は粉河寺、第三が傭兵軍団の養成地である根来寺、第四が雑賀である」。

 「悪魔」という言葉が出てきたが、しかしこれはヨーロッパの権力の手により派遣されたイエズス会の宣教師が語っているものである以上、通常日本において言われる「悪魔」とは意味合いがまるで違うので、そのへんは注意する必要がある。重要なのは、紀州の人々が、基本的に戦闘民族であり、それにより紀州を、外敵から守られた自治的なところにしているということだ。この点に関して、隆は『吉原御免状』の別の箇所で次のように語っている。

 「正規の武士団は別として、狩猟民だった彼等に匹敵する戦闘集団は、ほとんど無いと言っていい。伊賀・甲賀の忍びの集団といえども、傀儡子族と闘うことは避けるのである」。

 つまり、傀儡は、相当に恐ろしい存在として認知されていたということだ。ところで、この傀儡の起源についてだが、これは実に諸説あって、なかなか特定出来ないのが現状である。網野にしても、隆にしても、それぞれ文献に表れた様々な説を紹介しているもの、どれも決め手に欠けると言わざるをない。当然ながら、彼らについては、元々は外国の人々だったという説もまことしやかに唱えられてきた。たとえば、朝鮮渡来説。更には、インドあたりに端を発するジプシー説。ちなみに、隆はこのジプシー説にかなり惹かれているようで、『吉原御免状』のなかで「確かに、その根っからの陽気さ、音楽と踊りへの天性の嗜好という点で、ジプシーと傀儡子族は酷似している」と言っている。だが、このジプシー由来説も、眉唾である可能性は捨てきれない。そもそも、共同体的な縛りから切れた状態を「無縁」と言い、そのような彼らが、国や民族などに関係なく自由に交わることの出来る世界を「公界」と言うのである。傀儡は、この「無縁・公界」の極限を行くような存在なので、そうである以上、むしろ解らないのは当たり前といえる。そしてまた、このようないかがわしさこそは、権力にとって何よりも警戒すべきものである。しかもそれが最強の戦闘民族であるなら尚更である。という訳で、この傀儡に関しても、はっきりと解っていることだけで判断する。ともかく、何よりも隆が強調するのは、ジプシー的というところでも触れたような、「傀儡子族にとって、唄と踊りがどれだけ深く身に沁みたものであったか」ということだ。このことこそ、諸芸術・芸能の「殿堂」としての吉原へと通じる彼女たちの性質である。

 一方で、隆は、次のようにも言っている。

 「元来、遊びの世界で傀儡子族の男女に適うものはいない。彼らこそ天性の遊び人だからだ」。

 だが、これは実は、自由を愛する者の特質とも言える。音楽と舞踊をこよなく愛する天性の遊び人ほど、権力に管理されることを嫌うものもない。

 ちなみに、音楽と踊りへの天性の嗜好を持つ、狩猟民的な戦闘民族に由来する者というのは、とりわけ村上龍が語るキューバの人々と一致するのだが、これについては後ほど吉原における傀儡たちの音楽の内容を見る過程のなかで述べる。

 ところで、傀儡に関して、いくらこのようなことが伝えられていようと、戦闘と芸能だけで暮らしていけるわけがないのであって、もとより権力を寄せ付けない自治的な共和国が展開されていたならば、それは何よりも経済的な裏付けがなければならない。

 この点については、網野の『海民と日本社会』のなかにある「紀州の山村と海民」が導き手になる。彼は紀州について、まずは次のように言っている。

 「紀州の海民、紀州人の足跡をほんとうに辿ろうとしますと、太平洋岸のほとんどの漁村を調べて歩かなくてはなりません。そのぐらいの広さを持っているわけで、これも周知の通りですが、西に向かっても同様で、和泉の佐野、あるいは雑賀などの紀伊半島西岸の海民の活動は広域的で、(中略)西方、南方に向かっても広域的な活動をしていると思います。対馬と佐野の関係はよく知られているところですが、五島列島の各地を歩いてみますと、そこに佐野から来た和泉屋という商人がいたり、紀州と関わりをもっているということをしばしば聞くことができます」。

 「更に南方の土佐、日向、大隅の方面に向かって、紀伊の人が活動していることは、南北朝期にもはっきり確認できることで、その意味で、中国大陸から朝鮮半島にまで広く視野に入れたネットワークを紀伊半島を軸にして想定することは、十分に根拠があると思います」。

 ちなみに、隆の『吉原御免状』では、吉原の責任者の男が中国の言葉を流暢に話しているのだが、しかしそのような設定も、決して隆の創作ではなく、十分な根拠に基づいていることは明らかである。この点について、網野は『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』のなかで、「傀儡子や唐人が鎌倉時代の中ごろには集団をなして商売をやっていたらしい」と指摘している。傀儡とは、実に広範囲に渡って活動していたのだ。

 だが、これで終わりではなく、網野によると、「江戸時代、オーストラリアに紀伊の漁民が行ったという話まであります」というのである注9。その活動範囲の広さは、実に驚くべきものがあるといえる。

 一方で、紀州は半島である以上、海だけでなく、山もある。しかし網野によると、海に比べて、「山の世界の研究はきわめて立ち遅れていると言わざるを得ません」という状態だという。これについては、柳田國男による「山人」研究の挫折が相当に尾を引いているだろうことは想像に難くない。だが、それでひるむ網野ではない。

 そもそも、山の経済、山の人々の生活を、山だけで考えるのが間違いというものなのだ。というのも、既に何度も言ってきたように、かつての交通インフラは何よりも船なのである。だから山で生産された商品にしても、それは船に積まれ、河川を下って平地に運ばれ、更にそこから海へ出て諸外国・諸地域に運ばれて行くのである。山民の経済と海民の経済は一体なのだ。そして、それが何よりもよく解るところこそ半島であると網野は言う。

 紀伊半島に関して、まず網野は能登半島を例に出し、そこを半島のプロトタイプとして提示し、そのうえで紀州独自の性質を捉えようとしている。具体的には、「鉄をはじめとする鉱産物、あるいは材木や炭、さらに漆を用いた漆器や木器等々の山の産物」を取り上げ、「これは他の諸半島にもある程度まで押し及ぼすことができる動向ではないか」と述べたうえで、紀州の山の本質へ迫ろうというものである。

 そこでまず挙げられるのが、「絹、綿、布」である。とりわけ高級品としての絹ではない、「百姓の衣料ともなり、貨幣としても流通した絹」についての重要性を強調している。しかしもっと重要なのは、「材木と樽」である。材木は、家屋の建設に必要ならば、商品を納める箱にもなり、その他様々なものに使われる。もとより上質な材木の宝庫として評判を呼んだ紀州である。その需要はハンパではない。更に、材木は、船を建造するための資材でもある。という訳で、当時の経済は、材木なしには根本的に成り立たないのだ。

 鉄、炭、漆、絹、綿、布、材木、樽、すべて生活に欠くことの出来ないインフラばかりである。紀州の人々は、山民と海民が巧みに連携して、これらの製造・販売を行い、それは海を通して、実に遠くの地域とも取引された。そしてそうである以上、当然ながら、「貨幣的な富という点から言いますと、(中略)相当の水準の富をもっていた可能性が十分にあります」というのも、頷けるというのものだ。紀州とは、経済的に、大変豊かだったわけである。

 という訳で、これらすべてを民衆の間で共有し、頑なに自治を維持している以上、権力にとっては、邪魔以外のなにものでもない連中ということになる。しかも彼らは、一方では、最強の戦闘民族でもあるのだ。また、外国の言葉にも堪能である。そうして、恐ろしく広域的に活動し、実に様々な人々と交わっていた。

 もっとも、無論このような紀州の人々すべてが傀儡であったわけではない。そのなかでも、とりわけ戦闘と芸能に長けた、優れて移動し続ける人々こそ傀儡である注10

 さて、これで傀儡の外観はだいたい掴めたであろう。それでは、いよいよ吉原の音楽の内容について見ていくことにする。導き手は、もちろん隆慶一郎である。

 まず、以下に引用する部分は、屋根に上がった誠一郎という人物に向けて、大夫の1人が演奏する場面である。

 「かあん。
  鋭い音である。誠一郎は思わず体を起こした。
  かあん。かあん。
 (あれはなんだ?!)」。

 「鋭い音の合間に、人の掛声が入る。(中略)鼓を打つのは女であり、不思議な歌を歌うのも女である。男たちは舞っていた。何人かの男が酔ったように舞っていた。鼓の音は夜になっても続いた。(中略)胸中の何かを激しく打ち叩くような音だ」。

 「(座敷うちの芸ではないな。これは野外の音だ)
  そのくせ『みせすがかき』の音と妙に合う。いや、鼓が加わることによって『みせすがかき』が、広い野外での音に変わっている」。

 この遠くへ突き抜けていくような乾いた打撃音は、どのような楽器によるものだろうか? 鼓と聞いて我々が通常思い浮かべるようなものからは、こういう音は出ない。この突き抜けていくような打撃音は、シンコペーションによるものだ。打楽器がどのようなリズムを生み出せるか、それは打楽器それぞれの質によって担保される。たとえば、知らない者が見れば、コンガもジャンべも似たように思えるものだが、しかし実際に演奏してみると解るが、この2つの打楽器は、叩き方も、音の性質も、まるで違うのである。傀儡が、通常鼓と聞いて我々が思い浮かべるものとは違う打楽器を使っていた可能性は十分にある。

 ちなみに、ここで出てくる『みせすがかき』とは、三味線の合奏のことをいう。元々は、琵琶を激しくかき鳴らすものだったらしいのだが、やがて三味線に変わったらしい。三味線の合奏、そしてシンコペーションを生かした打楽器、このアンサンブルがどのようなサウンドであったのか、実に興味深いものがある注11

 さて一方、今度は、室内での踊りの場面である。

 「幻斎はなにもかも忘れている。どこの誰といるかも、自分が何者であるかも、忘れ果て、ただただ踊りに没入している。踊っているという意識すらないのではないか。誠一郎はそう感じた。己の生命の奥深いところからの指図に従って、手が動き、足も動く。それがそのまま踊りになっている。(中略)だが、やがて誠一郎は、身内のひきしまるような感覚におそわれた。
 (この老人!)
  これほど我を忘れて踊り狂っていながら、幻斎の身体に一部の隙もないのである。たとえ自分が必死の斬撃を浴びせかけても、軽々とかわされるに違いない。かわされるだけではない。即座になんらかのわざが返って来て、自分を斃すに違いない。誠一郎はそう確信した。(中略)幻斎の踊りにはそれだけの凄みがある」。

 「曲が続き、唄が続く限り、幻斎は幾晩でも、死ぬまででも踊り続けるのではないかとさえ思われた」。 

 読んで解る通り、この幻斎という人物は、明らかにトランス状態で踊っている。しかし一方で、彼は極度に覚醒し、澄み切っている。これは村上龍が『タナトス』で描いたサンテーリアの場面とそっくりである。

 「オレは凍りついたように動けなかった。トランス状態で、神と交信しようとする人間は覚醒の極みにあるのだとはじめて知った。もし間違ってその踊りを中断させてしまうようなことがあれば、その男に、ではなく、彼が交信しようとしているものによってオレは殺されてしまうだろう、と思った」。

 「ドラマーたちは手の皮膚が破けても太鼓を叩くのを止めないし、1人のドラマーが気を失ったりしたら、すぐに他の者が代わりに叩き始めるんだ……」

 隆と村上で、表現の仕方は異なるが、しかし言われているのは同じことだ。紀州に関して、イエズス会の宣教師が「悉く悪魔を崇める宗教に献じられた国である」と記していたことを思い出して欲しい。サンテーリアというのは、彼らから見れば、悪魔を崇める宗教である。だから傀儡のダンスに、そのような要素があっても決しておかしくはない。だが、その理由は、何も「悪魔」ということだけではないが、それについては後で述べる。

 ところで、村上龍は、90年代の前半にキューバの音楽と出会って以降、暫くの間は、エッセイから坂本龍一との往復書簡集『友よ、また逢おう』に至るまで、そこでの話題は、殆どキューバのことで埋め尽くされる。なかにはとんでもない間違いがあるものの、一方で、まさに村上龍だからこそ、という具合で見事に本質をブスリと突き刺したものもある。ここで特に重要なのは、「ドラムスとシンコペーション」についてだ。これは以前から村上が興味を持っていたテーマであり、たとえば『わたしのすべてを』というCDブックに収録された「南から来た男」というエッセイにおいて、次のように言っている。

 「シンコペーションは部族間戦争の際に必要で、後に祭にも利用された」。

 「農耕においては不必要な動きである。脳内代謝で、興奮物質が出る時に、からだの電気信号はシンコペイドする」。

 「シンコペーションはまず、気温と緯度に由来する。北のエスニック・ミュージックにシンコペーションはない。シンコペーションはビートのねじれの一種で、(中略)一瞬の抑圧・圧縮が必要だ」。

 このことに関して、傀儡は、最初と2番目は文句なしで当て嵌まる。傀儡は、狩猟民的な戦闘民族である。そして3つ目だが、日本の気候は温暖湿潤気候に分類されるとはいえ、一方で、夏においては亜熱帯も同然になる。しかも、かつて彼らが活動していた、紀伊半島南部から、土佐、日向、大隅にかけてはどうか? つまり黒潮の周辺地域であり、この一帯は、列島のなかでもとりわけ熱い地域である。しかしそれだけではない。網野は『海民と日本社会』のなかの「世界に開かれた日本列島」の章において、日本のことを、「いわば大陸の南北、さらに東南アジア、ポリネシアの島々にいたる懸橋として、日本列島にはきわめて古くから(中略)海を通して人々の出入りがきわめて活発であった」と言っている。

 前回、日本海沿岸部を通して、ウラジオストク方面から朝鮮・中国などとの関係を見たが、一方で紀州を起点とした太平洋側の交流を見ると、そこでは日本海側とはまるで違う顔を覗かせる。

 軍事ジャーナリストの田岡俊次によると、世界で最も強い潮流は、1つは黒潮であり、もう1つは、フロリダ海流であるという注12。日本の南海方面から黒潮を挟んでポリネシアの島々へと伸びる一帯の交流は、マイアミからフロリダ海流を挟んでキューバプエルト・リコへと伸びる地域の交流と、図式的には同じである。そもそも、アメリカの東部13州がイギリスから独立する以前、つまりアメリカ国家が存在しない近代の以前において、マイアミは、北米というよりも、明らかに中米カリブ地域の交流の中心である。それはまさに、中世・近世における紀伊や土佐と同じものだ。

 我々はとかく、「西洋」とか「東洋」などと言うが、しかし紀伊半島から土佐、南九州、ポリネシアに到るネットワークの地域は、明らかに「南」である。

 という訳で、村上が示唆するシンコペーションの条件を、傀儡はすべて満たすことになる。

 そしてまた、網野が何よりも打破しようとしたのは、均質な日本の民族性や文化という嘘である。それは何よりも「周りを海に囲まれ孤立した島国」というところから来るものなのだが、しかし前回詳細に見たように、このような日本の自画像は、近代国家によって捏造された虚構であり、実際は海に囲まれているからこそ、船によって実に広域的な交流が可能だったのであり、そうして諸外国の人々と交わってきたのだ。そしてその交流の足跡は、各地域ごとにまるで違うのである。

 ところで、キューバ音楽界の最高峰であるロス・バン・バンのファン・フォルメルは、『快楽のキューバ音楽ガイド』に収録された村上龍との対談のなかで、次のように言っている。

 「伝統的な音楽と言われるもの自体が、すでにいろんな音楽の融合したものなんです。まず根本的に、スペイン音楽とアフリカ音楽が混ざっているわけですし、ダンソンにはフランス音楽の影響があります。それはキューバの音楽に限らず、ブラジル音楽にしても、アメリカ南部の黒人音楽にしても同じです。すべては混ざり合って出来た音楽なんです」。

 一方で、浅田彰も『ヘルメスの音楽』のなかで、これとまったく同じことを別の表現で言っている。

 「そのような〈交通〉の只中からふり返ってみるとき、エスニックなものそれ自体が、もともと途方もない〈交通〉の産物としてあったのだということ、さまざまな民族の交叉の中で育まれてきたのだということが明らかになるだろう」。

 傀儡が活動した黒潮周辺の地域、たとえば現在四国には、よさこい踊りもあれば、阿波踊りもある。また三味線が伝わった先である沖縄には、沖縄民謡がある。更に彼らは、中国江南地方や、ポリネシア方面とも交流を持っていた。戦闘民族である彼らは、一方で交易にも長けており、そのような傀儡の音楽は、様々な地域との交流を通して生まれたものである。ファン・フォルメルや浅田が言うように、エスニックな伝統音楽自体、〈交通〉の産物であり、様々な要素の融合によるものだ。

 さて、吉原の楽器について見て、次いで踊りについても見たが、では、彼らの演奏した曲とはいったいどのようなものだったのだろうか? 

 先程の踊る場面に先立って、隆が曲について述べている箇所がある。彼はまず、「切ない歌詞であり曲であった」と言及したうえで、次のように続ける。

 「三味線の音が軽く陽気になる。(中略)嘆き悲しみを一気に吹き飛ばすような激しくはやい動き。すべてをこの踊りの中に叩き込んで忘れたいと願う強烈な祈り。剽げた所作の中に、凄まじいばかりの生命力と深い嘆きがみなぎっている」。

 これは、故郷喪失者の音楽に特有のものである。たとえば、ブラジル音楽のキーワードに「サウダージ」というものがある。これは望郷の思いのことである。だが、無論アフリカへの帰還は叶えられない。それはキューバにおいても同様である。村上もあちこちで再三語っていることだが、故郷喪失者の音楽は、涙が出るような切なさと、天空へ突き抜けていくような生命力が同居し、それはやがて震えるような快感となって空高く舞い上がってゆく。

 故郷喪失者は、故郷を追われた嘆きや悲しみを、単にそれとしては歌わない。村上は「トラウマは進化とサバイバルの契機である」と言った。悲しみには、強烈な生命力が吹きこまれ、それはグルーヴの力によって彼方へと吹き飛ばされなくてはならない。だが、それは本質的には切ないのである。

 そして、吉原の女性たちもまた、故郷喪失者である。彼女たちの同朋は軒並み非人・河原者として被差別民に処せられ、彼女たちの「故郷」の公界は、徹底的に消滅させられた。彼女たちは、かつていた場所に戻ることが永遠に不可能となった、「苦界」に身を置く故郷喪失者である。

 ところで、現代の日本において、故郷喪失者の音楽とは決して他人事でないのであって、このような音楽は、これから先、続々と生まれてくる気配である。というのも、現代の日本にも、ほぼ永遠に故郷を追われてしまった人々がいる。言うまでもなく、福島の人々である。

 たとえば、七尾旅人の「圏内の歌」とは、故郷喪失者の歌である注13。「圏内」とは、福島第一原発から測って、10キロ圏内だの30キロ圏内だのという「圏内」である。この「圏内」に暮らしていた人々は、もう2度と故郷に戻ることは出来ないのだ。不可能性という点においては、かつての黒人奴隷以上である。放射性セシウム半減期を考えれば当然であろう。

 ちなみに、もとより七尾は福島の人ではない。だが、そもそも、いまや日本そのものがかつての日本ではないのだ。東北・関東の太平洋側の海は軒並み放射能で汚染され、漁をして暮らしていくことを断念した人々はもちろんいる。また、首都圏においても、生活するのが危険なホットスポットは多数あり、首都圏から西日本へ「移住」した人々も少なからずいる。彼らもまた、故郷喪失者である。そしていまだ首都圏に暮らしている場合でも、福島の4号機の脅威は厳然として存在し、およそ安心出来る状況ではない。

 今ほど、人間と自然との関係について問われている時はない。

 そして、このシリーズの最大の導き手として度々言及してきたのは、何よりも網野晩年の主著『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』だが、この本の第1章の最初の見出しは、「人間と自然との境界」となっている。つまり網野は、人間と自然との関係を問うところから、すべての議論を始めているのだ。

 網野は、「かつて自然はまだまだ人の力の及び難い」領域であり、だからまさに「無所有」のものとして、「畏敬、あるいは畏怖すべき聖なるもの」であったと言い、次いで彼は、自然と同じような聖なるものとして、「金融」と「テクノロジー」の議論へと繋げるのだ。

 このシリーズの2回目で詳細に見たように、金融もテクノロジーも、かつては自然と同じように、聖なるものとして扱われていた。何故なら、この2つは本質的に危うさを孕むものであり、決して人間が所有しきれるものではないからだ。所有しえないものは、何よりも「外部性」によって担保される必要がある。そして中世においてこの「外部性」を代替したのが、世界宗教の神仏である。だが、この「外部性」とは、無論本来は「他者性」ということであり、柄谷が『探求Ⅱ』において指摘したように、意のままにならない、自らの思う通りにはならないものとの関係性である。

 一方で、金融とテクノロジーにまつわる本源的な危うさを忘れたところに成立し、未知の領域に土足で入りこれを我が物として「所有」したのが、ウォール街投資銀行であり、また日本の原子力業界である。そしてこれら2つの勢力は、それぞれが金融メルトダウンを、福島でのメルトダウンを引き起こした。

 ジョセフ・スティグリッツは、ウォール街投資銀行と日本の原子力産業の者どもを指して、「地球を相手にギャンブルを行う者たち」と言い、これを徹底批判した注14。当たり前だが、地球を相手にギャンブルをして、勝てる者などいない。それはまた、地球もまた、我々の意のままにならない「他者」であるということだ。これまで、地球は我々すべてを育んだ故郷であると言われてきた。だが、はたしてそうだろうか? むしろそのような「故郷」という把握こそが、本来「無所有」である自然を、あたかも「所有しうる」もののように錯覚させてしまう。「故郷」という概念が、既に虚構である。というのも、かつて人々は、自然を「畏敬、あるいは畏怖すべき聖なるもの」として捉えていた。それはすなわち、かつての人々は、地球あるいは自然に対して、「他者性」を保持していたということだ。何故なら、聖なるものは、決して「所有」しえないからである。しかし、「所有」しえないからこそ、それは「他者」の象徴たりえるのだ。それを彼らは、「神」という観念で表現した。

 そして、『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』のなかでは、次のようなことも言われている。

 「このごろ私はあちこちで申し上げているのですが、人類の青年時代は、もはや過去のものになりつつある。人間が人間を滅ぼし得る力を、自然の中から自らの力でつかみとってしまった現段階は、自然と人間の関わりをさらにまた大きく変化させたと言わざるをえない」。

 この「人間が人間を滅ぼし得る力を、自然の中から自らの力でつかみとってしまった」ものとは、当たり前だが、ウラン以外にはありえない。誰の目にも明らかだろう。これは福島の事故を受けて、完全に露呈された。一方で、網野は次のように続ける。

 「その時に、人間にはどうしようもない力を、聖なるものととらえていた古代人のあり方からも学ばなくてはならない。人間は自然を新しく知り、その力を開発していく。これは人間の本質ですが、同時に有限の存在である人間が、自然のすべてを知り尽くすことができないということもまた、一方の現実であります。(中略)人間の前進は引き返すことはできない。しかし前に進んでいく時に、これまで人間が何を切り捨ててきたか、前進の中で何を見失ってきたかを絶えず注意深く見詰めながら、先へ進んでいかなくてはいけないと思うのです」。

 これは、福島の事故が起こって以降、とりわけ坂本龍一大江健三郎などが繰り返し語ってきたことである。

 そして網野は、この本の結びにおいて、「これまで単純な『進歩』の追及の中で切り落とされ、見逃されてきた世界の中に蓄積されてきた人類の豊富な叡智を余すことなく汲みつくし、未来に生かすことが必要」だと説いているのだが、このことを否定出来るものは誰もいない。持続可能な社会の実現というテーマにおいて、何よりも重要な点だからである。

 という訳で、中世から自由民権運動たけなわの明治初期に至るまで、実に様々な人々や事象について見てきたわけだが、とりわけ異彩を放っているのが、一遍である。

 都市及び都市的な場、交通の結節点を活動拠点として、新興の経済人にとって最大の思想的な後見役であった彼は、一方で紀州の熊野で神託を受けて、そこから時宗を開いている。往来で展開された踊念仏もその賜物である。

 要するに、後に公界において花開く数々の諸芸能も、海を通して行われる初外国との貿易・金融業務も、彼のもとにはすべて詰まっているのだ。

 親鸞島流しに処し、世阿弥島流しに処し、出雲の阿国に不遇をかこわせ、傀儡など多くの漂泊民を非人・河原者として被差別民へと押し込めた権力も、一遍に対しては、飽くなき弾圧を行いながらも、ついにその活動に制限を加えることは出来なかった。この彼の強靭さはあらためて注目に値する。

 あらゆる権力に共通するのは、イデオロギー操作である。権力の標榜するイデオロギーこそ社会において「善」と見做され、権力にとっての邪魔者は「悪」の烙印を押される。それは21世紀に入ってなお、ジョージ・ブッシュが「悪の枢軸」と言ったり、あるいは無実の罪を着せられた石川知宏議員が自らを語った著書が『悪党』となるなど、枚挙にいとまがない。この点で、「悪党」が活躍し、「悪人正機」が唱えられた中世と、何ら違いはない。

 そんななか、一遍は何者であったのか? 彼は舞踊する者であり、誘惑する者だった。どこへ誘惑しようとしたのか? 「善悪の彼岸」へと。そして、近代に入って「善悪の彼岸」を唱えた哲学者といえばニーチェだが、彼の思想は、何よりもツァラトストラの遊行というかたちで語られた。ニーチェによるこの物語はもちろん虚構である。しかし、一遍に関する網野の分析から窺えるのは、一遍の遊行の過程が、実にツァラトストラとそっくりであるということだ。最も驚異的なのは、一遍がそのような行いを、実際の社会空間において現実に生き切ったことにある。

 一方で、「自力救済」のところで述べたように、「救済」の本質とは、自治であり自主自立である。それは何よりも、権力に対する/からの「自立」であり、それは経済的な自立によって担保される。この課題は、現代においてもまったく変わらない。いま最も求められているのが、原子力村からの経済的自立であることは明らかだ。これが成されなくては、全原発廃炉も、持続可能な社会の実現もありえない。

 ところで、ここで今一度、踊念仏のことに立ちかえりたい。

 これは路上において、打楽器のアンサンブルとダンスにより、怒涛のパフォーマンスを繰り広げるものであることは既に述べた。しかしその際に唱える言葉は、なにも「南無阿弥陀仏」だけであるとは限らない。黒田は『〔増補〕姿としぐさの中世史』のなかで、一遍を徹底批判する立場の『野守鏡』が伝える踊念仏の記述を引用しているのだが、それは次のようなものである。

 「一遍房といひし僧、念仏義をあやまりて、踊躍歓喜といふおどるべき心なりとて、頭をふり足を上げて踊るをもて、念仏の行義としつ、又直心即浄土なりといふ文につきて、(中略)偏に狂人のごとくにして、にくしと思ふ人をば、はばかるところなく放言して、これをゆかしく、たとふき正直のいたりなりとて……」。

 頭をふり、足を上げながら踊るという前半部分は既にこれまで述べたことである。問題は、後半の「にくしと思ふ人をば、はばかるところなく放言して」という部分である。時宗の人々が憎いと思う相手といえば、それはもちろん南都北嶺の大寺社や、貴族などの荘園領主たちである。つまり時宗の人々は、踊念仏を通して、権力批判を行うのだ。往来でもって、大勢の人々が、圧倒的な打楽器のアンサンブルを行い、頭をふり足を上げて踊りながら、大声でひたすら権力批判を唱え続けるのである注15

 網野が、支配層による一遍批判は殆ど踊念仏に集中していると言っているが、それも当然というものだろう。往来で堂々とこんなことをされては、権力の側としてはたまったものではない。時宗の人々は、これをトランス状態で延々と繰り広げるのだ。これが民衆の間で広く評判を呼んだのは当たり前である。非武装で行われる抗議運動としては、これほど人々の心を捉え、社会に対して威力を発揮するものもないだろう。まさに圧倒的なパフォーマンスといえる。

 ところで、現代の日本において、路上での演奏やダンスの取り締まりは非常に厳しく、牧村と津田の共著『未来型サバイバル音楽論 USTREAMtwitterは何を変えたのか』においても、「一曲ぐらい演らせてあげればいいのに」という言葉が出るほどである。ましてや路上での演奏が、そのまま権力への徹底的な抗議運動とクロスするなど、想像さえ出来なかった。しかし、2012年7月1日、あらゆる常識は木端微塵に打ち砕かれた。それは、大飯原発前においてである。

 この日、大飯原発の再稼働を阻止すべく、各地から集まった若者たちは、無数のドラムとパーカッションを持ち込み、そのまま大勢で路上を埋め尽くし、「再稼働反対!」と声高に唱えつつ、ドラムとパーカッションを猛烈に打ち鳴らし、そのアンサンブルが奏でるグルーヴに合わせ怒涛のダンス・パフォーマンスを繰り広げたのだ。それは、いつ果てるとも知れず、昼夜を通して延々と続いた。この模様は、岩上安身が主宰するIWJにより、インターネットを通して世界中に生中継された。観る者の目、聴く者の耳を徹底的に釘付けにする、圧倒的な光景だった。

 そして、このパフォーマンスを受けて真っ先に動いた者こそ、坂本龍一である。坂本はこのパフォーマンスを素材に、再稼働の読みを反対にした「ODAKIAS」というサンプリングによる曲を制作し、しかもそれは矢継ぎ早に幾つものヴァージョンが生み出され、次々とネットにアップされた。それは電光石火の早業であり、「奇襲」だった。そしてこの音源は、ユーチューブにもアップされ、フェイスブックを通して瞬く間にシェアされて、あっという間に大飯にまで届いたのだ。

 坂本の興奮は当然である。この突如出現した踊念仏の現代版ともいうべきパフォーマンスは、その音楽面においても、権力に対する抗議運動という点においても、その他あらゆる意味において、革命的以外のなにものでもないのだ。これに興奮しない者に新しい音楽を語る資格はないと言っていいぐらい、まさに革命的なパフォーマンスだった。

 そして、この7月1日は、まさに日本において、他のどこにもない日本独自のグルーヴが誕生した日でもあった。「サンバ」でも「カリプソ」でも「ルンバ・ワワンコ」でも「ルンバ・コルンビア」でも「ファンク」でも「R&B」でもない、「オダキアス」という新しいグルーヴの誕生である(再稼働の読みを反対にした「ODAKIAS」のことではなく、大飯でのアンサンブルのことを言っているのである)。これは今後更に発展させるべきものであるものの、しかしこの大飯でのセッションを受けて、日本のドラマーやパーカッショニストは、世界に対して胸を張れる自らのグルーヴを、ついに手に入れたのである注16。とはいえ、無論これが原子力村という権力の横暴との関係において生まれたものであることは言うまでもない。しかし、それだったら、先程挙げた「サンバ」も「カリプソ」も「ルンバ・ワワンコ」も「ルンバ・コルンビア」も「ファンク」も「R&B」も、すべて植民地主義奴隷制という権力の横暴との関係において生まれたものである。つまり、普遍的ということだ。この「オダキアス」は、文字通り権力との関係において我々が生み出し、我々が手に入れた、我々のグルーヴである。繰り返すが、これは新しい音楽であり、新しい歌である。

 ところで、村上龍は、彼が小説家としての地位を不動のものにした『コインロッカー・ベイビーズ』のラストを、次のように結んだ。

 「ハシの叫び声は歌に変わっていく。聞こえるか? ハシは彼方の塔に向かって呟いた」。

 「聞こえるか? 僕の、新しい歌だ」。

 そして村上は、往復書簡集『友よ、また逢おう』のなかで坂本に対し、「『コインロッカー・ベイビーズ』で芽を吹いた(中略)永遠のテーマとなってしまうかもしれない」ものとして、「抑圧とシンコペーション」のことを告げるのである。それはやがて、『五分後の世界』において、露骨に坂本をモデルにした音楽家ワカマツの創る音楽として結実するのだが、ところで、周知の通り村上は米軍基地のある佐世保の生まれであり、そこで後の彼を決定づけたのは、アメリカの原子力空母エンタープライズ佐世保入港である。

 この世界最強の原子力空母の入港に対して、日本の各地からそれを阻止すべくデモ隊が集まったが、機動隊の前にあっさりと蹴散らされた。以後、村上はこの空母において発着する戦闘機・ファントムについてあちこちで語ることになるが、一方でもはや有名となった彼のフォーク嫌いも、すべてはこの原子力空母とファントムに由来する。たとえば『69』において、彼は次のように語る。

 「基地の街に住む者は、アメリカがどれだけ強くて金持ちであるかよく知っている。ファントムの爆音を毎日聞いている高校生は、弱々しいフォークソングなんか屁以下だと知っているのだ」。

 「トラウマは進化とサバイバルの契機である」という彼の発言は、すべてここに始まっている。そして村上は、やがてアメリカに対し堂々と「NO!」を突き付けるキューバの、その「暴風雨のような怒涛のパーカッション」へと行き着くのである。そしてこのような村上の姿勢を誰よりも支えた者こそ、盟友である坂本龍一である。それは何より、『友よ、また逢おう』のなかで、珠玉の言葉となって記録されている。

 だが、その村上も坂本も、権力に対して真っ向から「NO!」を突き付ける怒涛のアンサンブルが、日本において、路上で、自然発生的に、市民レベルで生まれるとは、まったく予想出来なかった。予想出来なかったのはこの2人だけではない。それは、誰にも予想出来なかった。

 しかし、それは生まれた。坂本が興奮するのは当然なのだ。しかもオダキアスは、対外純資産において圧倒的ぶっちぎりの1位である世界最強の債権国日本の原子力産業と、文字通り世界最強の軍事大国であるアメリカの原子力産業を、まとめて敵にするものである。このオダキアスは、歴史上最も強力な権力を相手に生まれた音楽である。

 だが、この音楽は、天空高く舞い上がっていく。この音楽以上に勇敢な音楽は、いまや世界中どこを捜しても存在しない。世界最悪の放射能汚染を受けて、その激しい嘆きを風に乗せながら、しかしそれをグルーヴの力によって希望へと変え、空高く舞い上がっていく。そして持続可能な社会は、ただその彼方にのみ存在する。


(1)ゴーチエ/マラルメヴァレリー『舞踊評論』より。

(2)訴訟、酒屋への課税、一揆などの一連のことは、網野の『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』、及び神田千里『土一揆の時代』から要約した。

(3)当たり前だが、男のなかにも金融などの業務を行う者は数多くいた。ここで述べたのは、あくまでも傾向としてのものである。

(4)このような多民族混淆状態の中世日本に関しては、現在残っている家系図をもって批判する向きがあるかもしれない。つまり、家系図には移民の痕跡はなく、だからかつての日本においてそのような多民族混淆などは起こらなかったのだ、と。しかし、たとえば柄谷は「双系性をめぐって」のなかで、「今日、人がもっている家系図は、近年のものはいうまでもなく、万世一系の皇室もふくめて、すべてインチキだと考えていいのです」と語っている。実際のところ、「南北朝までは、先祖を中国や朝鮮におく系図もたくさんあったよう」なのだ。このことについては、浅田彰の編集による『GS たのしい知識』の「神国/日本」特集における柄谷・赤坂憲雄・百川敬仁による鼎談のなかで、網野や山本ひろ子の論を引用して、更に詳しく語られている。

(5)権力が打楽器を禁圧するのは、殆ど世界史に見て普遍的である。北米における太鼓狩りについては本文で述べたが、他にも、たとえばキューバにおいては1920年代にボンゴの禁止令が出ている。そしてヨーロッパの音楽も、基本的に打楽器のアンサンブルの排除によって成り立っている。『ボヴァリー夫人』における描写などから明らかなように、ワルツのようなダンス・ミュージックにさえ打楽器は使われない。だが、テオフィル・ゴーチエのレポートするところによれば、1830年代までは、パリのオペラ座においても、「かつてカトリック教会が排除したもの」の復元として、タンバリンやカスタネットなどの演奏による演目が踊られていたという。しかしそれらは、ロマン派バレエ(すなわちクラシック・バレエ)が確立されるのを期に、以後再び姿を消すのである。そして日本においても、一定レベルの打楽器奏者が被差別民にされた。何故権力は打楽器を禁圧するのか、これはもっと研究されてしかるべきである。

(6)京極は家光のことには一切触れていないが、しかし仏教をめぐるこの徳川幕府の統制政策の議論は、寺請制度と絡めて行われている以上、家光の治世下のことと考えて間違いないであろう。家康最晩年に制定された本末制度だけなら、寺院をトゥリー状のハイアラーキーの体制で管理しようというもので、決して原理性を骨抜きにするようなものではない。

(7)公界往来について、網野は『日本論の視座』のなかで、「日常生活では予測できぬ『ドンデン返し』の起こる再生の場」でもあれば、「集会の場」でもあると指摘している。

(8)権力による禁圧が、逆説的に新しい音楽を創造するというのは、歴史のなかではよくあることであり、奴隷制と差別による南北アメリカ大陸の黒人文化に根差したものなどはすべて当て嵌まるように、極めて普遍的なことである。そうであるならば、河原者という被差別民の制度が、何故逆説的に新しい音楽を創造しないと断言出来ようか? 江戸時代における諸外国との交流の足跡も、川上音二郎の録音も、共に厳然とした歴史的事実である。そしてまた、牧村が言うように「洋楽的な影響と言われるリズムが、輸入されたものばかりではなかったということ」も、厳然たる事実である。そうであるならば、江戸時代の日本においても、楽器でもって迂闊にビートを奏でるとへたをすれば自分たちが被差別民になってしまうという危機感から、民衆の間において声でビートを奏でる文化が生まれ、それが後に川上音二郎の録音として結実するに至ったというのは十分あり得ることなのだ。要するに、すべては固有名の問題に帰着する。「サルサ」も、「ルンバ・ワワンコ」も、「サンバ」も、「ファンク」も、「ガムラン」も、「ソナタ」も、皆ジャンルと呼ばれるものだが、しかしこれらは固有名である。固有名があるから、他と区別されるのだ。そうして、ある音楽を「他ならぬこれ」と名指ししうる。『探求Ⅱ』で柄谷が指摘したように、固有名とは、ダイレクトに物事を名指しするのだ。もし川上音二郎の音楽に、また江利チエミが聴いて育ったという色街の音楽に、固有名がついていたなら、このような事態は起こっていない。それらに固有名がついていたなら、まさにその音楽は、「他ならぬこれ」として、他の様々な音楽と区別しうる。大正時代に輸入され、盛況を博したジャズなどの音楽と、混同されるような事態は起こり得なかった。そうして、まさにこれこそ日本独自の伝統音楽として、人々に伝えられ、そして伝えられることを通して、様々に発展している筈である。すべてを解らなくしているのは、明治政府による、強権的な欧化政策と、それに基づく伝統文化に対する信じがたいほどの軽視であり、侮蔑である。当時国家の側は、ヨーロッパにおいて人々を熱狂させた浮世絵さえも無視した。そして同じく、欧米を興奮させた川上貞奴も無視された。だが、浮世絵は、残っている。しかし、川上音二郎がロンドンで録音した音源も、同様に残っているのである。そしてそれは、ラップだったのだ。 

(9)網野の『日本論の視座』には、「紀伊の串本、潮岬、大島(以上、和歌山県串本町)などの漁民が行っていたオーストラリア沿岸への貝類採取の出稼ぎ漁が、江戸時代まで遡る」という記述がある。
 
(10)隆は『吉原御免状』のなかで、傀儡のことを「山人の種族」としているが、しかし本文で見たように、山民の経済と海民の経済は一体であり、それは半島においては尚更なのだ。とりわけ、「傀儡子や唐人が鎌倉時代の中ごろには集団をなして商売をやっていたらしい」という網野の指摘は見過ごすことは出来ない。というのも、当時中国系の移民が活動していた場所は、何よりも港なのである。網野はまた、『日本論の視座』において、傀儡が極めて広範に活動していた様子を詳細に語っている。もちろんそのなかには、港や海辺も数多くある。という訳で、傀儡に関しては、山民でも海民でもあるところの自由民と考え、安易な定義は避けるべきであろう。解っていないことは、解らないままにして、事実だけを正確に捉え、その可能性を追うべきである。

(11)出雲の阿国は、「阿国」という名前から明らかなように、阿号が付いている。彼女に関しては謎が多いわけだが、しかしこの名前から、彼女が時宗系の人だった可能性は大である(ちなみに、彼女は巫女だったとも伝えられているが、しかしこの時代、時宗に帰依しつつ、一方で巫女でもあるというのは決して矛盾するものではない)。そしてそんな出雲の阿国は、芸能者として諸国を漂泊していた以上、彼女が傀儡と交流を持っていた可能性は十分にある。というより、中世の芸能民に関する網野の一連の論考から推し量れば、傀儡と阿国の間で交流がなかったという方が無理というものだ。吉原の音楽は、様々な人々との交流によって成り立っていたのである。そして川上音二郎は、一時吉原にもいて、更に芸者として最高峰にあった貞奴と結婚した人物である。一方で、彼は海民・倭寇の伝統を受け継ぐ人々とも交わっている。ちなみに、オッペケペーの録音を聴けば解るが、そのパフォーマンスは、まさに隆が『吉原御免状』で表現した、「激しく打ち叩くような」言葉の連射によってなされている。

(12)旧朝日ニュースターパックイン・ジャーナル」2011年7月2日放映の回による。

(13)七尾の「圏内の歌」は、彼個人のコンサートにしても、今年7月に幕張で行われた「NO NUKES 2012」における坂本龍一などとのコラボレーションにしても、いずれも素晴らしいパフォーマンスで、まさにサウンドが飛翔していくような感じだった。しかし、飛び立とうとすると、途端にそのサウンドは降りて来てしまっていた(故郷喪失者は、もはや帰還出来ないのに)。だが、無理もない。真っ向から故郷喪失者のことを歌うなど、これまではなかったのだから。しかし、この「圏内の歌」は、グルーヴという翼があれば、どこまでも高く舞い上がっていくだろう。私は、七尾の演奏を、凡百の音楽家との比較で語っているのではない。キューバやブラジルなどのなかでもとりわけレベルの高い、まさに世界最高峰の「故郷喪失者の歌」との比較において論じているのである。七尾は、今まさに「進化とサバイバルの契機」に臨んでいる。そこに「オダキアス」という翼が加われば、七尾の演奏は、必ず天空高く舞い上がっていくだろう。

(14)『週刊ダイヤモンド』2011年5月21日号に寄稿された論文による。なお、この論文は現在ダイヤモンド・オンラインで閲覧可能である。

(15)要するに、この場合の踊念仏とは、デモなのだ。そうであればこそ、徳川幕府が一定レベルの楽器演奏者を被差別民に処し、往来を厳格に管理しようとした理由も、より一層明らかになるというものだろう。考えてみてほしい、当時はテレビなどないのである。またスポーツだってない。音楽・舞踊・演劇、これらこそ最大の楽しみであり娯楽だったのだ。そこで時宗門徒によるこのような強烈なパフォーマンスが展開されれば、その評判は、口コミによって、瞬く間に野火のように広まる。それは即ち、「動員」の発端となるものだ。ここから一揆が起こるのは言うまでもないだろう。だから徳川幕府は、周到に被差別民の制度をつくり、あわせて往来の厳格な管理を目論んだのだ。このことは、文献や絵巻の詞書によって解るというより、大飯原発前での強烈なパフォーマンスを通してこそ、よりはっきり解るというものである。というより、踊躍歓喜としての踊念仏は別として、権力批判としての踊念仏がいかなるものであったのか、このこと自体、大飯原発前のパフォーマンスを通して、はじめて明らかになったというべきである。ちなみに、このような「反復」は、ニーチェなら「永遠回帰」と呼ぶものだ。ドゥルーズが指摘したように、こういうことこそが、強度的なものの反復としての永遠回帰である。ドゥルーズは、「回帰」とは「生成の存在」であるとも言っている。

(16)大飯原発前のアンサンブルは、サンバだと勘違いされて広まってしまった部分がある。日本の人は、打楽器によるアンサンブルを聴くと、何故かサンバだと思いがちのところがあって、しばしばプロのDJでさえ間違えるのだ。あのアンサンブルは、世界中のどのグルーヴとも違うものであるにも関わらず。しかし、このような混同こそ、川上音二郎が自らの音楽の糧としたり、あるいは江利チエミが色街で聴いていた音楽が、ジャズなどと混同されたのと同じメカニズムなのだ。だが、固有名のないものが辿る歴史というのは決まっていて、いずれ抹殺されるのである。だからこそ、新しいものを生み出すのが偉大であると同時に、その新しく生まれたものに固有名を与えること、つまり名付けることもまた偉大なのだ。そして、名付ける者のことを、「父」というのである。