「一遍あるいはニーチェ、推理小説としての音楽(4)前篇」

 出雲の阿国舞踊家であり、その踊りは非常にセクシュアルなものだったと伝えられている。彼女の踊りは大変な評判を呼び、京都の御所や江戸城にも招かれて公演を行ったほどであるが、ところで、音楽と踊りは不可分であり、音楽のない踊りというのは決してありえない。踊りとは、常に音楽に対して存在するのだ。だから彼女が踊るとき、そこには、必ずその踊りと必然的な関係を成すダンス・ミュージックが確かに存在したといえる。ロマン派バレエの名作『ジゼル』の作者にして詩人であるテオフィル・ゴーチエは、「踊りとは目で見る音楽である」と述べているように注1、音楽抜きの踊りというのは決してありえないのだ。

 ところで、出雲の阿国が出てきたとき、日本は諸外国と交流の真っ只中にあった。それは単にビジネスのうえでのことだけではなく、つまり貨幣や物品の移動だけではなく、人の交わりも極めて盛んだった。そもそも、平安時代の終わりにおいて、既に唐人町と呼ばれるチャイナタウンが日本海沿岸の地域に数多く存在し、更に中世になると、インドネシアから国書を携えた貿易船がたびたび来航するなど、日本の社会は、経済も、テクノロジーも、そしてもちろん文化も、その発展はすべて諸外国の人々との交流を抜きにしてはありえないのだが、室町時代の後半になると、ここにヨーロッパという要素が極めて重要なものとして加わることになる。

 様々な諸外国・諸地域との交流がいよいよ緊密さを増してきたこの時期は、当然日本の社会における変化も著しいものがあったが、そこで無視出来ないのが織田信長の果たした役割である。というのも、前回、網野善彦の言葉を引用して示唆したように、民俗の世界に生きている音の問題には、宗教上、政治上の様々な思惑や対立が絡んでいるからだ。しかし、その前に、前提として次のことを確認しておかねばならない。

 それは、中世の日本では、経済活動において、民間が自立的に動き、それを受けて金融も民間主導・民間が主体となって資金がまわり、相互の連携のなかで様々な事業が立ち上がり、そうしてほぼ民間主導で経済が発展していく、ということが全国規模でおこなわれたということだ。

 日本には、西陣織など各地に様々な伝統工芸品・名産品があるが、それらは室町時代を起源とするものが多い。室町時代には、日本各地でこれらの事業が実に色々と立ち上がったのだ。そうして物凄い競争、淘汰があって、とりわけ競争力を持ったものが現在においてなお生き残っている。ところで、織物であれ陶器であれその他何であれ、これらの品物は、21世紀の現在から見ても相当に凄いのである。これらの実物を目の当たりにして、その精緻な出来映えに驚かないものはいないだろう。明らかに、当時の最高峰の技術やデザインが結集されている。そうである以上、様々な分野の人間が関与している。で、そうして技術や情報や人が動くなら、当然それにあわせてカネも動く。でなければこれらは生まれないのである。という訳で、当時の金融機関は、実に効果的に資金をまわし、社会の富を増大させるうえで多大な貢献をしたのだ。

 金融は、既に鎌倉時代後期において相当発展していたことが、網野をはじめ中世の研究者たちの報告によって明らかにされている。それというのも、金融にまつわるタブーを鎌倉仏教が吸収していたからだ。このシリーズの2回目で詳細に見たように、鎌倉時代においては、浄土真宗時宗などの思想が人々の間で強力に作用しており、そうしてこれら世界宗教によって金融経済に関するインセンティヴが与えられ、活発な取引がなされていた。これらの勢力は、多くの荘園を持っていた南都北嶺の大寺社や貴族などからかなり弾圧されたものの、しかし一方で、当時の金融のあり方や環境は、相当に自由度が高かったのである。そうであればこそ、当時金融機関は活発に活動しえたのである、そしてそれこそが、室町時代における一連の開花を支えたのだ。

 こうして、中世においては実に資金がよくまわり、それを受けて現在に残る伝統工芸や名産品を製造・販売する事業者が全国各地で続々と育ったわけだが、重要なことは、これらがイノベーションであるということだ。現在から見ると過去の伝統産品であっても、しかし中世の人たちにとって、これらは当時の最高峰の技術・アイデアが結集したイノベーションなのだ。そして、このことは必然的に次のことを意味する。商工業の飛躍的な発展によって、荘園制に依存した従来の産業構造からの転換がなされたということだ。

 網野の『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』によると、鎌倉時代において、既に、木材、鉄、紙、油、漆、絹、焼物、麺、茶、海産物、酒類などの売買が旺盛な展開を見せており、広く商業活動がおこなわれていた。また、木材や鉄などの各資材を加工する技術者や装飾業者も少なからず存在した。このことは、何よりも当時全国各地に建立された鎌倉仏教の寺院の数と質を考えれば明らかである。人的・技術的なインフラという下地がなければ、これらの建立は不可能なのだ。また、御家人たちの住む武家屋敷の建設、及び建物内部で使われる箪笥などの各種耐久消費財の製造販売を請け負ったのも、当たり前だが民間の事業者・技術者である。更に、絹織物などの製品の技術も高く、蒔絵に至っては中国にも数多く輸出されたほどである。このように、技術開発や商業活動の範囲は当時から幅広く、そうであればこそ、金融も発達し得たのである。という訳で、鎌倉時代の経済は、荘園に根差す部分も相当にあったもの、しかし社会におけるソフトパワーの実態は、着実に成長していたのだ。

 そして、これら一連の動きを背景とした民間のエネルギーは、室町時代になると圧倒的な加速力をもって旧来の社会を突き破り、そうして、もはや到底後戻り不可能な地点にまで到達するのである。そしてこれら一連の動きを通して、産業構造の転換が民間の手によって自立的になされたのである。

 このように、室町時代には様々な事業が起こり、飛躍的な経済発展を遂げるわけだが、実は、この巨大なうねりが応仁の乱を生むのである。とにかく日本の各地方があまりに発展し、そしてその税収を受けて各地の守護大名は大きな富を蓄えるようになり、多大な実力を持つに至る。そのなかでもとりわけ強大だった山名と細川が京都で激突し、一方足利将軍家にはこれを止める力がまったくなく、そうこうする間に山名と細川も長い戦闘で共倒れになり、結果、中央の権力が完全に機能を停止するようになる。

 そして応仁の乱以後の室町後期は、戦国時代とかいう妙な名前で表現される時代に入るわけだが、マクロ的に見ると、この間、経済の発展は更に加速するのである。戦国時代とか戦乱の世などというと、まるで日本各地で戦ばかりやっていたように思えるが、しかし当たり前だがこれは大嘘であり、実際は戦をしているときよりも戦のないときの方がはるかに多かった(本当に戦ばかりやっていたら誰も十分に年貢を納められないわけで、そうなると何より困るのは当の領主である。もし本当に戦に明け暮れたなら、たちまち財政は悪化し、軍資金は枯渇する。そうなると簡単に下剋上でやられるか隣国にあっさり侵略されて終わり、ということになる。そして、それが戦国時代なのだ。武田信玄毛利元就などの優れた軍略家は極めて少数に過ぎない)。

 しかし、室町後期に経済の発展が加速した最大の理由は、何よりも応仁の乱にある。応仁の乱によって京都の既得権益層が全部まとめて没落し、そうして中央の政府・官庁が完全に機能を停止したため、それにより益々民間が力を持ち、益々民間主導で経済がまわるようになるのだ。(そして、民間の力をうまく生かせない領主は、経済的に衰退し、下剋上なり隣国の侵略を受けてやられる、ということになる。生き残りたいなら、各領主はイヤでも民間に経済を託し、民間の活力を引き出さざるをえないのだ)。なかでも、とりわけ民間の力を高く評価し、その力を最大限に引き出して、それにより一層の富の増幅を狙ったのが織田信長で、そもそも、楽市楽座とはそのための政策である。

 ちなみに、信長は、鎌倉時代に発展した仏教のなかでも最大勢力である本願寺派と真っ向から激突し、これを徹底的に弾圧しているが、しかしその一方で、彼はキリスト教は庇護している。そうして、当時西国において、キリスト教は相当に広まっている。

 信長の意図は明らかである。彼の経済政策は、国内的には楽市・楽座、対外的には貿易の捉進であるわけだが、当時の交通の大動脈は、何といっても瀬戸内海航路であり、その終着点に位置するのは、堺と大阪である。という訳で、大阪を押さえていた石山本願寺は、貿易に関する莫大な利権を得ていたのだ。で、そうして大阪に着いた物品を東国に運ぶ際、紀伊半島沿岸をぐるりと廻り、伊勢湾から愛知・東海方面に抜ける東南海航路が有力なルートとなるのだが、当時この東南海航路を押さえていた存在こそ、伊勢の長島願証寺とそれに連なる伊勢水軍であり、更には、紀伊半島一向宗門徒や雑賀・根来衆たちである。そして、室町後期においては、大阪も、伊勢も、紀伊半島も、いずれも大名の支配の外にあり、僧侶や商業民などを中心に見事に自治がおこなわれ、さながら中世イタリア的な都市国家状態だった。それを信長は、中央集権的に再統合しようとしたのである。そしてそれを為すために、新たな秩序形成の思想的基盤として、キリスト教を使おうとしたのだ。

 ところで、仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、世界宗教の原理は、押し並べて父権的である。そしてそれが新たな原理として社会に浸透し、人々の精神を捉え、そうして人々の在り方を拘束するようになると、その過程においては、旧来の在り方は抑圧される。これは、権力関係によって抑圧されるという以前に、精神の姿勢として、旧来のものは論理的に抑圧され、締め出されるのである。

 この点において、キリスト教というのは、そもそも二面性を持っている、つまり、父なる神に従属する一方で、そこから零れ落ちる部分、父への従属の不満を解消するものとして、聖母マリアが用意されている。このマリアは、母でありながら、その実態は、キリスト教浸透以前の、各地域ごとに異なる民俗的・土俗的な精神性の代替機能を成すという面を明確に持っている。つまり、世界宗教の「父」は常に外からやって来てやがて精神の裡に内面化されるわけだが、一方で「母」はもともとの土地にある精神性である。キリスト教は、構造的に二面性を持っていて、「父」と「母」の両方をキリスト教だけで自己完結的に満たしてしまう。

 一方で、ヨーロッパの外部、つまりヨーロッパから見て「新世界」の場所では必ずしもそうではなく、たとえばブラジルやキューバなどにおいては、アフリカ起源の民俗的な宗教や習俗がこの「母」の役割を果たし、「父」だけでは捉えられない部分を補完する重要な要素として機能する。サンテーリアなどは、まさにその代表的なものである。しかしそれは、決して以前と同じものではなく、まさに世界宗教の「父」と出会い、「父」に従属することを通して初めて生まれる、新しいものである。

 世界宗教の「父」とはロゴス(理)を司るものであり、そしてロゴスにより世界を解読しつつ、様々なテクノロジーを生み出し、文明を発展させていくのだが、一方で「双系性をめぐって」のなかで柄谷行人が指摘したように、このようなロゴス中心的な文明は、必ず母なるもの、土俗的なものを抑圧してしまう。そして人はこの抑圧されたものを、想像的に回復しようと試みる。このように、「父」と「母」が激しくぶつかりながら徐々に均衡していくことによって、ようやく社会は一定の秩序を持って回転していくのである。

 これは、どの地域においてもそうである。北米では、ヨーロッパとラテン・アメリカとの中間的な形態にあった。たとえば黒人霊歌というのは、キリスト教の教会で歌われる讃美歌であり、それ自体は「父」への従属を示すものなのだが、一方ではそこにアフリカ伝来のスピリチュアルな要素が色濃く存在する。そしてこの黒人霊歌から、後にファンクやソウルといったものが発展していくのだ。

 こうして、世界宗教と民俗的なものがぶつかる過程において新しい文化が生まれていき、しかもそれが音楽・ダンスというかたちで現実化することは、世界的に見ても極めて普遍的なのだが、そうである以上、このことは日本においても当て嵌まる。その代表的な例が時宗の一遍がおこなった踊念仏であることは、既にこのシリーズにおいて何度も見てきた通りだ。

 そしてまた、出雲の阿国の踊りもこの例に当て嵌まる。日本にとって、フランシスコ・ザビエルルイス・フロイスなどの宣教師によって広まったキリスト教は、当然ながら外からやって来た世界宗教だが、一方では、それ以前の段階で民衆の間に広く根を張っていた一向宗(仏教)も、同様に外からやってきた世界宗教である。

 つまり、16世紀後半の日本においては、世界宗教世界宗教がぶつかっているのだ。しかもそれは、新しい金融経済やテクノロジーの波と共にやって来て、奔流のように社会を飲み込み、社会を攪拌したのである。この動きは、当然文化の面においても新たな動きを要求ぜずにはおかない。

 激動の時代なのである。第3回目で見たように、膨大な埋蔵量を誇る石見銀山で採掘された銀は、国内でよりも中国において需要があり、日本から中国に輸出された銀は、まず中国の通貨を変え、次いで中国の税制を変え、更にその後日本銀は東南アジアにも大量に入り込み、こうして、日本銀の広がりが直接的な原因となり、アジア圏における金融経済の在り方は、加速度的にその連携の度合いを深めていった。一方で、ヨーロッパからも、当初はスペイン、ポルトガルの貿易船が次々と日本に来航したかと思えば、レパントの海戦でスペインの無敵艦隊イギリス海軍に大敗を喫したことを受けて、17世紀になると今度はイギリスとオランダが世界の市場に進出を始める。それにあわせて徳川家康も、アジア向けには大規模な商船を通しての朱印船貿易を活発化させながら、イギリスのウイリアム・アダムス、オランダのヤン・ヨーステンを自らのブレーンとし、より一層の貿易の促進と、それに基づく高度な金融経済の運営を目論むことになる。

 このようなうねりのなかで、社会は激しく攪拌された。この変化は、人々の精神のありようにも多大な影響を与えずにはおかないものだ。ここにおいて、新たな文化は絶対必要になってくる。そうであればこそ、出雲の阿国による踊りが、それまでにない全く新しい、非常にセクシュアルなものとして出現し、市井の民衆から京都の貴族や徳川将軍家の間まで、広く評判を呼んだというのは、いわば必然である。

 このことは、家康の経済政策を考えれば尚更である。意外に思われるかもしれないが、家康の経済政策というのは、基本的に信長の政策を踏襲した、貿易立国である。

 茶屋四郎次郎をはじめとする東南アジア方面の朱印船貿易、イギリス・オランダを相手にしたヨーロッパとの貿易については既に述べたが、最も注目すべきは大久保長安である。鉱山開発のプロであり、屈指の経済人であった大久保長安に巨大な権限を持たせたことは、家康の狙いを端的に物語っている。当時の大久保長安とは、現代的に言うなら、さしずめ経済産業大臣国土交通大臣金融庁長官を兼ねたような存在だ。圧倒的な力を持っていたのである。また、御三家のうちの二つを、紀伊と名古屋に置いたというのも、ここが太平洋岸における東国と西国の結び目であり、海の道の要衝であったからである。

 名古屋は信長の出身地だから解りにくいが、しかし信長が何故あれほど伊勢・長島の勢力と激しく戦い続けたかというと、ここが太平洋沿岸における最大の交通の要衝だからである。伊勢・長島の人々にしても、交易によって経済的に潤っていたからこそ、何年にも渡って信長と闘うだけの軍備の調達が可能だったのである。また、そうであればこそ、信長は決して和解することなく、この地を全面的に掌握することに徹底してこだわったのであり、そして家康が紀伊と名古屋に御三家を置いたのも、このような信長の姿勢を踏襲してのことである(なお、海上交通における紀伊の重要性については、後ほど更に詳しく見ることにする)。

 ともかく、こういう次第で、秀吉というのをすっ飛ばして、信長と家康を繋げて見てみると、室町時代末期から江戸時代初期にかけての日本の変化には、明らかな一貫性があるのだ。

 つまり、当時の日本は貿易の振興を通して、常に自らを、〈外〉へ、〈外〉へと繰り広げようとする一方で、〈外〉からやってくる物や人や情報を内側に取り込むことにも熱心だった。家康は、3代将軍家光がしたように、日本人の海外渡航を禁止することなどまったく考えていなかったのである。

 3代家光(というよりその側近たち)は、日本人の海外渡航を禁止し、またヨーロッパとの貿易も長崎の一港に限定し、幕府の厳格な管理下におきながら、利権だけはしっかりいただこうという政策をとったわけだが、家康はそれとはまったく逆であり、民間の力を最大限に生かしつつ、海を跨いで人と人が猛烈に行き交うことを通して経済を活性化させていくような政策をとっていた。そしてその家康は出雲の阿国江戸城に招いている一方で、家光の代になると出雲の阿国は不遇をかこい、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃と全部まとめて厳しく禁止されることになる。この動きは、明らかに必然的な関係を持っている。

 2つのフェーズがある。中世から近世初期にかけての日本の舞踊において、カリスマ的な影響力を誇った人物、あるいはグループは、一遍とその門徒世阿弥、そして出雲の阿国である。

 サンテーリアにも比すべき踊念仏の魔力をもって人々を魅了した一遍とその門徒たちは、唐人町と呼ばれるチャイナタウンがあり、国際的にも名の知れた貿易港である若狭湾を最大の拠点として活動し、新興の経済人から圧倒的な支持を受けていた。世阿弥足利義満の庇護のもとにスターへと登りつめたわけだが、その義満は明と大規模な勘合貿易を行う重商主義の人であり、そして出雲の阿国江戸城に招いた家康もまた積極的に海外に目を向け、朝鮮とは即座に融和を図りつつ、貿易立国を目指していた。

 一方で、一遍を徹底して弾圧した南都北嶺や京都の貴族たちは、荘園制という既得権に胡坐をかこうという者たちであり、また義満の死後に世阿弥を迫害した将軍足利義持は、義満とは真逆の保守的な人物で、更にその後天台座主から還俗して将軍となった足利義教によって世阿弥は無実の罪を着せられて島流しに遭い、そして日本人の海外渡航を禁止するなど内向き以外のなにものでもない家光とその側近たちは、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃をまとめて禁止するのである。

 要するに、広くアジア諸国やヨーロッパの方を向いている者たちは、新しい舞踊を愛し、また庇護し、一方で利権にしがみつく保守的で内向きな者たちは、逆に弾圧や迫害や禁止によって思い切り抑圧しているわけである。

 しかしこう言うと、……おいちょっと待て、それってなんだか風営法を盾にしてダンスを取り締まるいまの日本に似てないか? いまの日本の権力者たちも、海外に目を向けず、利権にしがみついて保守的で……、という疑問が出てくるかもしれないが、それはまた後の話だ。

 もう1つのフェーズは、先程述べた、世界宗教の持つ二面性である。この二面性は、実際には更に2つに分けられる。柄谷行人は、「双系性をめぐって」のなかで、西欧や中国・朝鮮においては、厳格な父権制が確立され、その抑圧を受けることを通して母系的なものが想像的に回復されるという構造としての二面性であるのに対し、日本の場合はそうではなく、日本では、「父」が極めて弱い、しかしそれでいて母系社会ともいえず、「父」も「母」も、そのどちらも原理として確立されることなく同居する、双系性であると指摘している。

 先程の議論の際に取り上げた人物に限って言うと、日本史のなかで信長が極めて異質であることは誰の目にも明らかだが、この信長は、社会に対して厳格な「父」として存在したことは確実である。また、南北朝を統一し、朝廷も押さえ、絶大な権力のもとに日本国王として君臨した足利義満も、足利将軍15代のなかでは唯一厳格な「父」であり、そのような存在として社会を支配した。家康が「父」であったことは言うまでもない。

 「父」は、まさに「父」であることによって、社会の秩序を保つうえで、母系的なものの想像的な回復を必要とする。そして踊りやダンスというのは優れて想像的(虚構的)なものである以上、こうして新しい文化が生まれ、社会は回転していく。

 だが、義満や信長や家康のような存在は日本においては稀であり、柄谷が指摘するように、藤原氏摂関政治にしろ、北条氏の執権政治にしろ、そして江戸時代の殆どがそうだった老中たちによる政治にしろ、最高権力者である天皇や将軍を盾にして、公式には権限のない者たちが、責任のある場所から一歩退いたところで利権を背景に支配するというのが日本の権力のありようとして一般的だった。フランスのブルボン王朝にしても、中国の清王朝にしても、1人の人間が数十年に渡って王位・帝位の座についているのに対し、日本の場合、将軍はあっという間にコロコロと変わるのだ。

 およそ200年続いたブルボン王朝において、その間王位についたのは最初のアンリ4世から最後のルイ16世までわずか5人である。清王朝はおよそ300年のなかで帝位についたのは12人いるが、しかし康煕帝が即位した17世紀半ばから19世紀半ばの200年に関しては、清王朝もやはり皇帝は5人である。それに対し、江戸幕府はおよそ260年の間に実に15人も将軍になり、とにかくコロコロ変わり続けた。

 フランスにしても、中国にしても、日本の感覚からすると、王位・帝位についた者が200年でわずか5人というのは相当に少ないと感じるかもしれないが、しかし王とは即ち「国父」であり、そうである以上、本来はそう簡単に変わるものではない。最高権力者が次々に変わってしまう日本の方が異常なのだ。

 だが、こう言うと、……外国と較べて政治の最高権力者がコロコロと変わるというのも、なんだかいまの日本と似てないか……、という感想が出てくるかもしれないが、それもまた後の話だ。

 日本の権力構造において、「父」が弱いというのは柄谷の指摘を待つまでもなく明らかである。そして、柄谷は「双系性をめぐって」において、権力の側がこうである以上、記録に残っていない民間の間ではもっとそうだったといわねばならないと語っているが、とはいえ、そこは慎重に見る必要がある。

 人間社会の活動において、最も重要にして生活の基盤を成すものは経済であり、必然的に政治も、この経済の在り方をめぐって争われる。だから経済活動の現場を詳細に見ることは、政治を考えるうえでも、更には文化を考えるうえでも、極めて重要といえる。

 鎌倉時代の経済において、何よりも見逃すことの出来ないのは、市場(マーケット)である。このシリーズの第2回目で見たように、当時市が立ったところは、門前市に代表される寺院の傍と、河原なのだが、この市の光景とは、具体的にどのようなものだったのだろうか? このことを考察する際に、中世の研究者たちの間で最も重宝されるのが、『一遍聖絵』と呼ばれる絵巻である。

 都市あるいは都市的な場を中心に布教し、当時の新興の経済人から絶大な支持を受けた一遍である。そうである以上、彼のことを伝える史料は、そのまま当時の市場のありようもよく伝えている。これを分析した書物として、黒田日出男による『〔増補〕姿としぐさの中世史』は、当時のことを考察するうえで極めて有用であり、まずは黒田の分析をもとに当時の市場のありようを見ていこう。

 場面は、備前国福岡の市である。黒田によると、この市に描かれている人の数は67人である。問題はその内実なのだが、黒田によれば、最も多いのは女性で、数は30人である。次いで男が19人。そして残りは老人と子どもである。

 既に前回において、網野と宮田登の共著『歴史のなかで語られなかったこと おんな・子ども・老人からの日本史』を通して見たように、この時期の経済において、女性の果たした役割というのは非常に大きいものがあった。なにしろ、租税の対象だった絹や綿を売っていたのも女性なら、金融業を営んでいたのも女性であり、更に不動産の売買も女性の名義だったのである。当時の女性の役割がこのように多大なものであったからこそ、黒田にしても、鎌倉時代における「市の華やいだ空気というのは、このような女達の多い空間としての性格にも由来する」と言っている。

 ところで、このような中世の女性たちとは、いったいどのような性質の持ち主だったのだろうか? この点は、様々な角度から検証されるべきである。

 そこで、まずは一遍のもとに集まった女性たちから見てみよう。

 一遍というのは、実に男女分け隔てなく接し、のみならず時宗門徒には、尼僧が相当数いたのである。彼女たちがいてこそ、男女が一体となって踊る、踊念仏が可能だったわけだが、一方で、無論彼女たちこそは、当時の日本において他の誰よりも密接に金融経済と関わっていた。この一遍のもとに集まった尼僧たちとは、いったいどのような性質の者たちだったのだろうか?

 これに関して、やはりまずは踊念仏とはどういうものであったかを見る必要がある。踊念仏というのは、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)と呼ばれるもので、多くの人々と歓びを分かち合うためのものだった。この踊りについて、網野は「民俗的な呪術信仰とも深く結びついた野生の激しい噴出」と言っているように、相当に激しいもので、その原初的な躍動はサンテーリア的なものを連想させる。

 黒田は絵巻を通して更に細かく分析しているが、彼によると、一遍を中心とする時衆たちの踊りは、非常にファナティックであり、しかも踊念仏はその陶酔のなかにおいて、その場に「花」を降らせ、「紫雲」を立ち昇らせると指摘している。この「花」と「紫雲」というのは、踊念仏の鍵となるもので、延々と続く打楽器の演奏とダンスによって、その場に「花」が降り、「紫雲」が立ち昇るというのである。無論、これが興奮や陶酔の果てに生じる幻覚であることは言うまでもない。とはいえ、このことを思えば、キューバやブラジルのサンテーリアを例に出してこの踊念仏を説明したことが解るであろう。サンテーリアも、延々と続くダンスとパーカッション・アンサンブルによってその場の雰囲気は段々と神がかっていき、そうして人々は徐々に幻覚のなかへ入ってゆくわけだが、踊念仏もまさにそれと同じなのだ。黒田は、「一遍らの踊念仏の音楽と舞踊が醸し出す宗教的な陶酔が、その場につくりだす幻覚こそが『紫雲』や『花』の正体であったろう」と言い、「一遍と時衆に対する人々の認識は、踊念仏のエクシタシーと紫雲と花による浄土の実感であった」と述べている。

 つまり時宗の教えというのは、徹底的な現世利益に基づいているのである。しかしそれも当然であって、なにしろ一遍は、京都や南都北嶺などの荘園領主に対して、貨幣流通に基づく金融経済の思想的な後見人なのである。そうであればこそ、一遍のもとには多くの人々が集まったのだ。

 ところで、物事というのは、ときにそれを批判する側の方こそが、それがいかなるものであったかという正確な姿を伝えることがある。一遍は、既得権益層から、あることないこと色々と責め立てられたのだが、ないことは論外であるにしても、あることに関しては、つまり事実そうだっただろうということについては、むしろ批判者の言説こそ貴重な史料となりうる。この点で黒田は、『天狗草紙』、及びその異本として伝えられている「魔仏一如絵」という絵巻に着目し、そこに描かれた「尼僧が肩を抱き合い、手を取り合っている姿」に注目している。これはいったい何なのか? 黒田は次のように述べている。

 「結論的に言えば、これこそ前述の詞書の表現であり、性的放縦を示唆しているものと解釈できると思っている。つまり尼僧同士の同性愛(レズビアン)的な関係を表現している」。

 当たり前だが、私たちのグループにはレズビアンもたくさんいますよ、などと自ら積極的に広める者など、そういるものではない。こういうことは、批判者の目を通してこそよく解るのである。もっとも、今日的な人権の見地から言えば、女性の同性愛というのは、決してスキャンダラスなことと受け取られるべきではなく、その権利は国際的に尊重されてしかるべきなのだが、しかし鎌倉時代の日本においては話は別である。だが、この女性の同性愛が何故攻撃の対象とされるかというその理由について、現代的な感覚から推し量ると重大な誤謬に陥ることになる。

 性的紊乱をもって時宗を批判するにしても、黒田は、「そのような紊乱の表現が何故尼僧の同性愛(レズビアン)でなければならなかったのか」という問いを設定したうえで、次のように述べている。

 「つまり、男女関係の紊乱などというのはいわば世の常であり、この時代の寺院内における妻帯僧の存在も既に常識であった。また、寺院におけるホモセクシュアルな関係も、顕密寺院では余りにも一般的であり、そのことをいくら強調しても当該社会での強力な時宗批判とはなりえない」。

 「けれども女性の、更に言えば尼僧の同性愛とすればどうであろうか。恐らくそれだけで、性的放縦・紊乱を極めて強力にアッピールできたと思われる」。

 研究者の間では常識となっていることだが、かつての日本の性風俗というのは、厳格な縛りなどまるでない、相当に自由なものであり、いわゆる操の堅い大和撫子などという女性像は、明治に入ってから権力によって恣意的に捏造されたものに過ぎないということは、柄谷行人はもとより、京極夏彦なども強調していることである。

 このことを指摘するうえで、最もよく使われる史料は、室町後期に来日したイエズス会の宣教師による日本の観察記である。ルイス・フロイスのものが何よりも有名だが、他にも記録を残した宣教師は複数いて、当時の日本の民衆のありようを今に伝える貴重な史料となっている。一方では、室町時代前期に来日した朝鮮の外交官や、更には秀吉の朝鮮出兵の際に現地で捕縛され、そのまま日本に連行されてきた大陸の人々もそれぞれ記録を残している。

 村井章介佐藤信・吉田伸之の編集による『境界の日本史』は、まさにこのような日本にとって外部の視点を一同に紹介し分析している本であり、非常に有用である。まずは、イエズス会の宣教師にとって日本の女性たちはどのように映ったのだろうか?

 「処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても栄誉も結婚(する資格)も失いはしない」、「日本では、比丘尼の僧院はほとんど娼婦街になっている」、「娘たちは両親と相談することなく、1日でも、また幾日でも、1人で行きたいところに行く」、などと言って驚愕している。また結婚して妻となった女性についても、「夫に知られず、自由に行きたいところに行く」、「望みのままに幾人でも離別する。彼女たちはそれによって名誉も結婚(する資格)も失わない」、「20回も堕ろした女性がいるほどである」。

 一方で、朝鮮や中国の人たちはどう見たのだろうか?

 「婦女子は軽快で賢明で、顔が多くはすんなりしているが、ただ性質が頗る淫蕩でたとえ良家の女子でも殆ど皆別の心が有り、商家の女もまた人知れず密かに過ごす者も有り」、「風俗が沐浴することを貴んでたとえ厳冬でも廃することなく、市街の街頭毎に沐浴する家を造って置いて其の代価を受け、男女が同じ場所で裸体になって互いに戯れて恥じることなく」、「『女は男に倍す』というほど往来に女性が目立ち、各宿駅で遊女が客引きを激しく行い、銭を出せば昼でも遊ぶことができる」、という訳で、彼らの驚きぶりも、ヨーロッパのイベリア半島からやって来たイエズス会の宣教師と殆ど同じである。

 このように、中世の日本は、どう見てもヨーロッパはもちろん、海を挟んですぐ隣の中国や朝鮮とさえ似ても似つかないものであり、むしろブラジルやキューバなどに近いものがある。

 しかし、彼らの驚きは、性風俗ばかりではない。読み書きの出来る子どもの多さ、大人の女性たちの高い教養にも、非常な驚きをもって見詰めている。以下は、宣教師たちの記述である。

 「日本では、すべての子どもが仏僧の寺で学習する」、「貴婦人においては、もしその心得がなければ格が下がるものとされる」。

 これに関連することで興味深いのが、室町時代に朝鮮からやって来た外交官たちが、日本の高度な製紙の技術に感嘆し、彼らの母国に対しその導入を提案していることである。

 「たとえば1429年次通信使の朴瑞正は日本の造紙技術を導入し、水車の技術に着目し模型を造ってその優秀性を訴えている」。

 当たり前だが、この時代において商品の包装などはないのであり、紙とは、何よりも読み書きなど勉強の際のノートとして、また書物を編むための素材として使用されたのである。

 江戸時代の日本では、寺子屋という私塾が全国的に普及し、子どもたちはこの寺子屋で勉強をしており、それにより当時の日本の子どもの識字率はイギリスやフランスよりも高く、世界一の教育水準を誇っていたことは有名な話だが、しかし中世においては僧侶など一部の特権階級を除いて、民衆は基本的にみんな文字は読めなかったというのが一般的な認識である。だが、これは大嘘もいいところなのだ。中世の日本において、子どもは皆寺院で勉学を行っており、大人の女性ともなれば、その教養は非常に高いものがあったのである。そうであればこそ、高度な製紙の技術も発達していたのだ。

 このように、イエズス会の宣教師も、中国・朝鮮の人々も、共にこの時代の日本における民衆の教養の高さにかなり驚いているのだが、では、これら寺院において、教育をはじめ様々なことで広く社会に大きな影響を及ぼしていた僧とは、はたして男の僧なのか、それとも女の僧なのか? 『境界の日本史』によれば、答えは以下の通りである。

 「尼僧は、知識人として、あるいは国家の役から逃れる人々として社会のなかに遍在しており、その存在感は圧倒的である」。

 ということなのだ。一方で、当時の金融経済の主要な担い手も女性だったことは既に述べた通りである。こういう次第で、当時の女性たちは、実によく学問が出来たのだ。

 こうして、中世の日本女性の姿とは、何人もの男を取っ換え引っ換えしながら凛として貴婦人の風情を失わず、一方で見事に学問を修めヨーロッパや中国・朝鮮の知識人も舌を巻くほどの学識を身につけ、そうして金融経済の場で颯爽と活躍していたのである。このような女性を現代の日本で見かけようものなら、参りました、という感じなのだが、ところで、このように現代においてはテレビドラマなどで格好の材料となるような女性というのは、当時においては珍しくもなんともなく、ごく当たり前に存在していたのである。

 ところで、これほどまでに逞しく自立的だった当時の日本女性のことを思えば、日本の権力の在り方において「父」が弱かったとしても、しかし柄谷が論じるように、それをもって日本は民衆レベルにおいても「父」も「母」も共に弱い、あらゆる原理を排除した分裂症的な社会空間だったと言うことははたして可能だろうか? どうもそうではないように思われる。

 日本の公権力が弱いのは明らかである。そもそも鎌倉幕府は、国内における外国通貨の流通を厳格に禁じていたのだが、しかし実際のところ、外国通貨は大手を振るって堂々と流通し、それにより貨幣経済が発達したのである。また、だからこそ、前回詳細に見たように、日本の各地域は、中央の政策などどこ吹く風という感じで、それぞれが諸外国と独自に貿易も行いえたのである。朝鮮の外交官にとって、このような日本はどのように映ったのだろうか? 彼らの手記を分析した『境界の日本史』によると、それは次のようなものである。

 「日本社会の統治の仕組みはきわめて分権的で、公権力の存在感の薄い国家であった。私的領域が卓越した地域と言い換えることもできる」。

 「社会の仕組みが分散的で、多くの社会領域が国家組織から独立して機能しているように記述されている。記述を読む限り、武士によって支配された社会という印象を持つことは困難なほどである」。

 権力の社会に対する支配力を測るうえで、最も解り易い物差しは増税である。古今東西、あらゆる国・地域において、増税というのは市民・民衆が常に嫌がるものである。しかし、とりわけ近代の以前においては、権力が強ければ、まさにその強さにものをいわせて無理やり増税を強いることは可能であるように思える。というより、このような姿こそ、近代以前の権力に対する一般的なイメージだろう。とりわけ革命などが一切起こらなかったと伝えられているかつての日本においては、幕府や朝廷の発する強権のもとに民衆は厭々ながら無理やりそれに従っていたと、そう思うかもしれない。

 しかし、実際は逆である。中世の日本において、公権力が増税を行うのは至難の業だったのだ。最も有名なのは酒屋への課税である。当時の酒屋というのは、単に酒の売買をするというものではなく、とりわけ京都においては有力な金融機関として重要であり、なので権力の側は当然この酒屋に対して課税を試みた。だが、建武政府において一旦は全権を掌握した後醍醐天皇でさえ、京都の酒屋への課税には失敗している。それは当時の有力業界団体である比叡山延暦寺興福寺などの猛反発に遭ったからなのだが、一方でこれら南都北嶺の大寺社たちは民衆にとっては何よりも敵であり、そして当時の民衆は実にしたたかで抜け目がなく、この南都北嶺の動きを逆手にとって利用し、すかさず一揆を行って権力の側から徳政令を引き出しているのである。

 そして以後、徳政令を引き出す民衆の一揆は常態化する。ときには室町幕府に抵抗しようという守護大名の目論見を巧みに利用するなどして、幾度となく幕府から徳政令を引き出すことに成功している。

 また、鎌倉時代に起こった猛烈な数の訴訟も見逃すことの出来ないものだ。鎌倉時代の日本はアメリカ並みの訴訟社会であり、何かあればそのたびに民衆は訴訟を起こし、そうして荘園領主から税の減免(今風に言うと減税)を勝ち取っている注2。そして幕府にしろ朝廷にしろ、共にそれを追認しているのである。

 酒屋への課税に関して言うならば、これを断行しえたのは、実に足利義満まで待たなければならない。「日本国王」として絶大な権力を誇った義満だけが、ただこれを成しえたのである。

 このように、哲学的な面から分析しても、また朝鮮など外国の目から見ても、義満のような例外を除けば、あらゆる点において日本の権力者が「国父」たりえていないのは明らかである。しかしそれは、柄谷が指摘するように、そもそも根本的に「父」が弱いからなのか? それとも、実は日本の民衆が当時としては世界的にも稀なほど強かったからなのか?

 中世の民衆の在り方として有名なものに「自力救済」というものがある。「自力救済」とは、自分たちの権利は自分たちの手により自力で守るというものだ(そして、「救済」とは元々そういうものである)。

 「自力救済」については、教科書にも載っている用語であり、中世社会における共同体間の紛争などの際、自分たちの権利は自力で守り、そうして物事を自力で解決する、というのが一般的な説明である。しかし、事実はそれだけではない。

 具体的にどういうことか?

 鎌倉時代にしても江戸時代にしてもそうだが、民衆は武士の部下ではない、部下ではない民衆が武士の言うことを一方的に聞かねばならない道理などない。たとえば、鎌倉時代御家人というのは武家の棟梁である源氏の部下であり、もっと言うと主従関係にある。だが、民衆は違う。時宗門徒一向宗徒に関して言えば、彼らが従属するのは、ただ阿弥陀如来に対してのみである。民衆は、ただ阿弥陀如来にのみ従属し、そして如来のもとにすべての者は平等である以上、彼等にとって幕府などは断じて「お上」ではない。将軍は武士にとっては「上様」だが、民衆にとっては「上様」ではない。

 だからこそ、一揆も可能なのだ。一揆とは、民衆が行使しうる当然の権利である。権利であるから、権力の側は一揆そのものを管理出来ないのだ。

 そうであればこそ、ましてや侍になりたいなどとどうして思うだろうか? だいたい、刀を差すのは武士の特権だというのが広く行き渡った認識だが、しかしそれはとんでもない間違いである。中世の日本においては、武士だけではなく、民衆もみんな刀を差していたのである。『〔増補〕姿としぐさの中世史』において、黒田は次のように言っている。

 「中世の人々が腰刀を腰に差す姿は実に一般的であった」。

 「中世の民衆は、様々な身分的特徴を示しているが、その共通とも言えそうなところが、腰に物を差すことである。そして、その大部分は腰刀と呼ばれる短い刀であり、その差しかたは、腰の後ろに差すものが多い」。

 「絵巻物を読んでいるとすぐに気付くのであるが、従者・所従とおぼしき人物、下人、山臥、漁師、職人、行商人、農民、あるいは寺の坊主にいたるまで、極端に言えば、貴族や僧侶などの支配層を除くどの身分でも、皆腰に短い刀を差していたことが、この絵巻物からわかるのである」。

 ちなみに、短い刀といってもいわゆる短刀という類のものではない。絵巻物に描かれている幾つもの実例を見れば明らかなのだが、いわゆる太刀と呼ばれるものは長過ぎる刀と言ってよいもので、むしろ民衆が差していた刀の方こそ、通常我々が刀と聞いて思い浮かべるものである。

 ともかく、これが中世の民衆の姿なのだ。だから、中世における一揆といえば、むしろに竹槍というのが一般的なイメージだが、しかしそれはとんでもない大嘘であり、一揆を行う民衆の武器は刀である。この時代の民衆は、誰もがみな刀を差して往来を行き交っていたのだ。それぐらい、当時民衆が刀を差すのは当たり前のことだったのである。だからこそ、いわゆる時代劇において、民衆が刀を差していないのは、明らかに事実に反するのである。どの時代劇であろうと、そこで描かれる民衆はすべて刀を差していなければならない。

 これは決して中世だけの話ではない。名字・帯刀が禁じられていた筈の江戸時代においても同様である。網野の著書『歴史と出会う』には、網野と宮崎駿との対談が収録されているのだが、そのなかで網野は次のように言っている。

 「最近になってはっきり確認されてきたことですが、江戸時代になっても百姓はみな腰刀を持っていたんですよ。侍の太刀とは違うけれども、武装はしていた。百姓は鉄砲だって持ってましたしね」。

 そしてこの話を受けて宮崎が、「時代劇に見る武装している侍と武装していない農民という図式はいったいいつごろ出てきたんですかね?」という質問をしているのだが、それに対して網野は「近代になってからですね」と答えたうえで、さらに次のように語っている。

 「しかも、そうした武装解除された農民と武装している侍というつくられた図式が映画の時代劇にも猛烈に影響している。藤木久志さんが書いていますが、黒澤明監督の『七人の侍』の設定も、その図式に完全に絡めとられてしまっています。それには歴史家の責任は大きいですね。(中略)武装できない百姓というのはまったく事実ではないのです」。

 という訳なのだ。後醍醐天皇だろうが、足利尊氏だろうが、権力の側が民衆を苦しめるような政策をとろうとした場合、民衆は刀を使って抗議運動を展開したのである。

 そもそも、信長が最も苦戦した相手とは、武田勝頼でもなければ、浅井・朝倉でもなく、第一に、石山本願寺であり、第二に、長島願証寺であり、また紀州の雑賀・根来衆たちである。当時の民衆は、大名より強かったのだ。それが民衆の在り方として当たり前だったのである。そうであればこそ、朝鮮の外交官の残した記録が、当時の日本について「武士によって支配された社会という印象を持つことは困難」と伝えているのも頷けるというものだろう。「社会の仕組みが分散的で、多くの社会領域が国家組織から独立して機能して」いたのも当然で、何故なら、民衆の方が権力より強かったからだ。だから私的領域が国家組織から独立して存在しえたのである。

 自らより強い者たちを支配出来る存在などいない。鎌倉・室町を通じて、ただ足利義満だけが民衆を支配出来たのであり、それ以外の為政者たちは民衆の権利を認めるしかなかった。そして、これが「自力救済」の本当の姿である。

 だが教科書はそうは語っていない。こういう次第である以上、本来教科書は子どもたちに対して次のように伝えなければならない。「中世の日本の民衆は、権力に対して堂々と自らの権利を主張し、それは一揆を通してほぼ常に実現されてきた」。「こうして、権力に対して広く連帯し、強い団結力のもとに抗議運動を展開することは、かつての民衆にとってあまりにも当たり前であり、為政者はその運動に怯え、とても弱かったのである」と伝えなければならない。言うまでもなく、こういうことが徹底的に教えられていたならば、現代の日本において、全共闘の敗北以降、およそ40年間に渡って大規模なデモが一度も起きないなど、ありえるわけもなく、そもそも市民が政府や官僚のことを「お上」などと呼ぶことも決してありえなかっただろう。

 それにしても、重要なのは隠蔽のカラクリである。鎖国に関する一連の隠蔽のカラクリについては前回詳細に見た通りだが、この武装する民衆とその強さについての隠蔽がいかになされたかということも非常に重要である。このカラクリがどういうものであったのかについては、『〔増補〕姿としぐさの中世史』のあとがきでの黒田の言葉がそれをよく示唆しているように思われる。この本は、中世の民衆について、徹底的に絵巻物などの絵画史料から考察するという試みなのだが、そのあとがきで黒田は、次のように言っている。

 「文献史料に慣れ親しみ、文献史料の分析と読解こそが歴史学の王道であると確信する歴史研究者は、絵画を史料として読む試みなど際物にしか見えなかっただろう。そうしたきつい視線を感じながら、絵画史料論の試みを積み重ね、突き進んでいった」。

 そうして黒田は、この試みを「なんとも危険な冒険であった」と振り返っているのだが、西洋美術に詳しい人なら既に気付かれただろう。ヨーロッパにおいては、絵画に描かれた姿を通して、中世や近世における民衆のあり方を研究するのはあまりにも当たり前である。それは当然というものだ。しかし、その当たり前の研究が、日本においては長年に渡り「際物」扱いされてきたのである。これは、歴史の真実を探ろうとするならば、どう考えてもおかしいのである。

 そもそも、文献史料が信用出来ないというのは、何よりも網野の口癖であり、だから彼の研究は、襖の下張り文書や紙背文書などを丹念に調べることを通してなされたのである。また、そうであればこそ、網野はもちろん絵画史料の重要性を強く認識しており、「絵を読む」ことは、『無縁・公界・楽』を刊行して以降における「長い道のりの一応の集成」とまで彼が言うほど重要な晩年の主著『日本中世に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』における重要なテーマでもある。だが、そのように絵画史料に深く寄り添った研究は、学界においては「際物」扱いされ、ひたすら脇へ追いやられてきたのである。

 しかし、たとえば現在毎週金曜日に行われている官邸前抗議デモにしても、その人数に関していくら大手メディアが嘘を書こうと、広瀬隆の呼び掛けで行われたヘリコプターによる空撮の写真を見れば、デモの巨大な規模というのは一目瞭然である。真実を一発で後世に伝えるという点で、視覚史料の役割はとても大きいのだ。今から100年後の教科書においては、歴史の大転換点として6月29日の空撮写真は必ず使われるであろう。そして、中世や近世について、多くの歴史家が後生大事に扱う文献史料というのは、20万人集まった抗議運動を2万人と記したり、あるいはそもそも根本的に記述すらしていないという類いのものである。だから網野や黒田たちは、文献を信じないのだ。

 ところで、当たり前だが、中世において、刀を差して権力にものを言っていたのはもちろん男たちである。という訳で、中世の金融経済における女性たちの華々しい活躍や、教育・文化事業における尼僧の活躍を思えば、この時代は女ばかり逞しくて男はいったい何をやっていたんだ? 女にばかり活躍されてまったくだらしない、と誰もが思うだろうが、しかし当時の男たちは、権力に対し決してひるむことなく、社会における自分たちの権利を守るために、また自分の大切な女たちを守るために、命を賭けて戦って、そして実際権力に対し勝利してきたのである。これはまったくもって、天晴れな男たちである。

 また、そうであるならば、中世においてこのような男たちはどういった職に従事していたのかという問いについては、容易に答えらるように思われる。つまり、力仕事なのである。それは、農作業であり、漁業であり、更には重要なインフラの産業である製鉄業であり、製紙業であり、鉱山の開発であり、木材の調達や加工であり、更に交通運輸である。これらを中心に男たちは働いていたわけだ。これは、蒸気機関のない時代としては、男女間におけるなかなか見事な分業といえるかもしれない、社会的に非常に効率性の高いものだ注3。

 ところで、このような中世の日本において、女たちのありようを見ても、男たちのありようを見ても、いずれにしても民衆の間では、「父」が弱い、原理性を排除した分裂症的なものだったとは、どうしても見えないのである。とはいえ、もちろんそれはヨーロッパや中国・朝鮮とは明らかに異なる様式であることは間違いない。しかし、だからといって、それで「父」が弱かったとは言えない。阿弥陀如来という世界宗教の「父」が強力に影響力を発揮していたことは、厳然たる事実だからである。

 更に、当時の日本社会のありように関して、見過ごしてならないのが、外国人との交流である。前回詳細に見たように、既に平安時代末期において、唐人町と呼ばれるチャイナタウンが日本海沿岸部の各都市に存在していたわけだが、しかし海の向こうから日本にやってきたのは中国系だけではない。室町時代の朝鮮の外交官をはじめ、手記を残した人々は、当然ながら日本国外からやってきた人々との交流を記録している。『境界の日本史』によれば、彼らは「さまざまな職業・身分の外国人と会って」おり、「いずれも、同時代の東アジアの大きな変動に対応した現象であり、(中略)都市あるいは交通路にそってこのような外国人がかなりいたと考えられる」。

 つまり、鎌倉時代から室町時代へと時代が下るにつれて、諸外国からの移民は、チャイナタウンなどにまとまって存在したのではなく、まさに文字通り自由に往来を移動し、様々な領域へと入り、交わっていたことが容易に推測される。しかも、このように「かなりの数の外国人がさまざまに活動していたように推測できる」だけでなく、中国や朝鮮において奴隷として差別されていた人々もかなりの数が日本にやって来ているのだが、彼らのように大陸で奴隷として差別されていた人々も、日本では平等に扱われたのである。「彼らが社会的に差別されているような記述は見いだせず、どちらの意味においても日本の社会は外に対して開かれていたようである」と『境界の日本史』は分析している。

 そして、このような開放性とは、「文字どおり、ある社会、ある人々にとって、望ましいとか望ましくないとかにかかわらず、どんなものでも社会のなかに入りこみ、あるいは出て行く」ようなものだったという。これは、多様性という点で、殆ど理想的とさえいえるものである。世界で最も数多くの移民によって構成されているところといえばカナダだが、そこまで数多くの外国人が来ていたかどうかは定かでないとはいえ、しかしこのようにかつての日本社会のありようとして提示された「望ましいとか望ましくないとかにかかわらず、どんなものでも社会のなかに入りこみ、あるいは出て行く」という姿は、カナダ的なものを連想させる注4。

 このような中世日本に関して、『境界の日本史』は、その総括として、荒野泰典の次のような分析を紹介している。

 「多種類の外国人が日本に渡来し、逆に多くの日本人が海外に出ていき、各地に諸民族雑居が生じたことに注目し、この社会変動を『倭寇的状況』という用語で説明した。本稿で検討した記述は、その『倭寇的状況』が予想以上に日本社会に広がっていたことを示すかもしれない。そんななかで旅人たちは自由に社会を観察したのである」。

 繰り返すが、「望ましいとか望ましくないとかにかかわらず、どんなものでも社会のなかに入りこみ、あるいは出て行く」というところは、何よりも重要であり、つまり経済的なインセンティヴによって、ある特定の人材のみを受け入れていたのではなく、まさにどんな者であろうと、当時の日本社会には出入りが可能だったのだ。これはこれで、カナダのようなものとして、ある種の徹底した原理性に貫かれている。

 ところで、このように非常に開かれた環境において、当時の女たちは、何人も男を取っ替え引っ換えしながら凛として貴婦人の風情を失わず、優れた教養を持ち、金融経済の最前線で颯爽と活躍していて、一方で男たちは、権力に対して少しもひるむことなく真っ向から自らの権利を主張してこれに勝利し、そうして社会全体として諸外国と盛んに交易を行い富を蓄積していっていたわけだが、このような中世の男女たちは、いったいどのような音楽を聴き、どのような舞踊を楽しんでいたのだろうか? 現在伝わっているような、長唄や盆踊りのようなものだろうか? しかしそれよりは、サンテーリアにも比すべき踊念仏や、海洋的な色彩の濃い優れてセクシュアルな出雲の阿国のパフォーマンスの方が、彼らには似合っているように思われる。

 時宗系の寺院に関しては、イエズズ会の宣教師たちが、布教して信者を拡大させていくうえで、これを最大のライヴァルと見做しており、そうであれば、時宗門徒の活動は室町後期においても相当に盛んだったことは間違いない。

 そしてやがて時代は、出雲の阿国を社会に登場させるわけだが、問題は、出雲の阿国が行った舞踊と、及び彼女が踊る際に演奏された音楽は、文字通りこの時代において異端的なものであり、そうであるがゆえに目立ったのか? それとも、名前は残っていないけれども、出雲の阿国が行った舞踊や音楽に似たスタイルのものは当時の日本において実に広範に演奏され、踊られていたもので、そのなかでも特に突き抜けてレベルの高かった出雲の阿国だけが、唯一後世にその名を残したのだろうか? 

 何を問いたいかというと、出雲の阿国と同種の音楽は当時数多く存在し、民衆の間において広く好評を博していたのはないか、ということだ。そして出雲の阿国は、そのような下地が十分に整っていたからこそ、それを昇華したうえで、他にないレベルにまでその芸術性を高めたのだ、とはいえないだろうか? 

 物事は、固有名があってはじめて歴史に残るのである。出雲の阿国の踊りは、まさに阿国歌舞伎という固有名があったからこそ後世にもその存在が伝わっているのだ。固有名が継承されないと、たとえかつては確かに存在したものでも、それは歴史に残らないのである。

 しかし、徳川家光による禁止は、出雲の阿国が行ったものに類似するスタイルの音楽や舞踊が、当時数多く存在していたことを、逆説的に示している。何故か? 家光の禁止令は、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃の禁止である。これはもちろん、固有名ではなく、一般名での禁止である。もしも阿国歌舞伎だけが特筆すべき異端的なものであったなら、阿国歌舞伎を名指しして固有名で禁じればよい。だが、実際は、一般名で禁じているのである。それはつまり、類似する音楽や舞踊は当時社会にあまた存在しており、それを全部禁止したかったからこそ、幅広く適用しうる一般名で禁じたということである。

 現代を例に挙げてこの問題を考えてみよう。たとえば、1970年代の日本の音楽に関して、その時代にはまだ生まれてもいなければ、ポピュラー音楽についてもとりたてて知識のない者から見れば、それまで歌謡曲グループサウンズばかりだったところにいきなりYMOというのが出てきたように見える。だが、それは当時の日本のポピュラー音楽のありようをまったく反映していない見方である。

 数々のレーベル運営に携わってきた音楽プロデューサーの牧村憲一は、1970年代の日本のポピュラー音楽のありようをなんとか後世に伝えようとしているが、しかし現在音楽大学で教える身の牧村は、大学生たちに当時のことを教えようとしても、当時のポピュラー音楽のことを正確に伝える書籍がまるでないため大変四苦八苦している旨を、しばしばフェイスブック上で洩らしている。

 1970年代でさえこうなのだ。ましてや400年以上前の日本のポピュラー音楽のことを知ろうものなら、その苦労は並ではない。しかし明らかなのは、数々の素晴しい先達を抜きにいきなり出雲の阿国という天才が出てくるなどありえる筈がなく、そのような見方は虚構以外のなにものでもないということだ。

 ちなみに、猛烈なスピードで進行する資本主義経済における時代の経過を、400年前にも適用することなど決して出来ない。1970年代の10年間に起こったのと同じような経過が起こるには、かつてであれば数十年、あるいは100年以上かかると見るべきである。そして、繰り返すが、物事というのは、固有名が継承されてこそ、はじめて後世に伝わるのである。家光が一般名で禁止したということは、阿国歌舞伎に類似する音楽や舞踊があまた存在していたことを逆説的に証明しているのである。「倭寇的状況」において広く好評を博していた音楽は、まさにその時代を映すように、優れて倭寇的な音楽だったといえるだろう。だから幕府は厳格に禁止したのである。

 ところで、このような倭寇的状況において広く民衆に支持され日頃から愛された音楽とは、具体的にどのようなものだったのだろうか? このことを考察するうえで、見過ごすことの出来ないのが、当時の民衆はみな刀を差していたという事実である。言うまでもなく、刀というのは金属製である。網野や黒田が指摘するところによれば、当時の日本は大変に製鉄が盛んであり、農業用具から建築物などに至るまで実に広範に使われていた。この金属が楽器に使われないわけがない。ところで、当時の日本の楽器といえば、主に笛などの管楽器、琴や琵琶や三味線などの弦楽器、そして打楽器と大きく三種類に大別出来るが、ダンス・ミュージックを成立させるうえでは、当然ながら打楽器が何より重要になる(当たり前だが、舞踊家である出雲の阿国の音楽とはダンス・ミュージックである)。そして当時は、イエズズ会の宣教師が最大のライヴァルと見做したのが時宗系の寺院であったように、室町後期や安土桃山時代においても時宗はその魔術的な要素を失っておらず、門徒たちの活動は非常に活発であった。その場に「花」を降らせ、「紫雲」を立ち昇らせるというほど人々を陶酔の彼方へ引き込む踊念仏である。出雲の阿国が、この踊念仏を超えて更に人々の心を魅惑するには、ダンスを主武器としながらも、踊念仏とは別の新しい要素が必要であったろう。

 しかも、京都の御所や江戸城にも招かれているところ見ると、踊念仏と較べればかなり洗練されたものであった筈である。セクシュアルであることと、洗練されていることは、決して矛盾するものではない。

 だが、その出雲の阿国の音楽は、少なくとも表面上は現代にはまったく伝わっていないように思える。幕府の禁止により、廃れてしまったも同然の状態だ。

 ところで、カリブ諸国やブラジルなどのラテン・アメリカにおいては、アフリカ伝来のパーカッションが独自なかたちで発展し、それにより多彩なリズムの音楽が生まれていったが、アメリカの黒人の間ではそうならなかった。これは、19世紀のアメリカにおいて、太鼓狩りと呼ばれるものが強行に実施されたためである。アメリカの白人支配層は、黒人たちから彼らの貴重な楽器を奪ったのである。

 この太鼓狩りとは違うものではあるが、前回、江戸時代において一定レベルの楽器演奏者が河原者として被差別民扱いされたことに触れたが、ここで蔑視されたのはどの楽器の演奏者だったろうか? 笛、琴、琵琶、三味線、などは江戸時代に多彩な展開を見た家元制度のなかで多くの人々が習っていた。だからこれらの奏法は現在においても伝えられている。とするならば、江戸時代に蔑視されたのは、打楽器の演奏者であろう。幕府が女歌舞伎や女舞などを禁止したことを思えば尚更である注5。しかも、いわゆる和太鼓などは普通に夏祭りなどで演奏されてきたことを思えば、金属製の打楽器が目の敵にされたであろうことは想像に難くない。

 数ある打楽器のなかでも、金属製の打楽器の打ち出すグルーヴは、最も人を興奮に誘うものであることはこのシリーズの2回目に述べた通りである。浅田彰坂本龍一の言葉を引用して詳しく見たように、そもそも、金属音というのは共同体にとっては本質的にタブーなのだ。そして、金属製の打楽器が奏でる音は空間を切り裂いて、実によく響くのであり(これほど遠くへ響くものはないのであって、だから寺院や教会の鐘の音は遠くまで届くのだ)、空間を切り裂く金属音のグルーヴは、おのずと倭寇的なダンス・ミュージックの演奏開始を人々に告げずにはおかず、そうであればこそ、このような楽器を統制しようと目論むことは、往来を厳格に管理しようとしていた幕府の姿勢を思えばむしろ当然といえる。家光とその幕閣は、日本の公共空間から他者の痕跡をこそ徹底的に除こうとしたのである。だからかぶき者などの演劇人も差別されたのだ。

 この点は極めて重要であり、決して見逃すことは出来ない。たとえば、現代の日本において、ビジネスや行政の現場では、髭をたくわえていることは基本的にタブーである。髭を生やしているのは、スポーツ選手や芸術家など一部の者に限られるというのが現状だ。一方で、かつては武将にしろ公家にしろ、公の場で仕事をする者はみな髭をたくわえていたわけだが、実は、『境界の日本史』には、有力者たちの肖像画について次のような記述がある。

 「信長や秀吉、家康や秀忠、正親町・後陽成両天皇までは、髭で描かれているのに対して、家光以降は、明治期までいっさい無髭である」。

 つまり、家光の時代から、髭はなくなるのだ。『境界の日本史』によれば、家光の治世下において、幕府は「強制的に髭など、彼らが好まなかったヘアスタイルを禁圧し始めた」、こうして「髭は『男伊達』『勇ましい』ことではなく、もはや体制に逆らって抵抗する『かぶき者』のシンボルに変わった」。「日本の新しい体制のもとで実践されたヘアスタイルをめぐる風俗取り締まりは厳重なものであった」と述べている。

 つまり、家光の時代において、権力者たちは、舞踊や音楽から、果ては髭やヘアスタイルなどファッションに至るまで、厳格な取り締まりを始めるのである。

 「茂った髭や総髪というヘアスタイルは、もはやマージナリティーや抵抗を意味するようになった。天正期に、朝廷も認める『天下の髭』だったのが、(中略)抑制すべき抵抗者の『かぶき者』の『奴髪』になった」。

 要するに、家光の時代から、段々と現代の日本に似てくるのである。踊るのも駄目、髭も駄目、奇抜な服装も駄目……、とにかくあれこれについていちいち規制をはじめ、タブー視が始まる。学校の校則のような、あるいは会社のなかにおける規則のような、そういうものが出てくるのがこの時代である。

 言うまでもなく、規則を通じて幕府が管理しようとした最大のものは貿易の利権である。日本人の海外渡航を禁止し、ヨーロッパとの窓口を長崎の一港に限定したのも、外国貿易の利権を幕府が独占するためだ。

 そして、家光が行った政策には、重要なものが更に2つある。

 言うまでもなく、1つ目は参勤交代である。この法令によって、諸大名は必ず半年江戸にいなければならなくなり、しかも奥方は必ず江戸在住で、そしてこのことを受けて、大量の家来たちも江戸に居住することになる。また、このような状況を受けて、各藩お抱えの御用商人たちも大挙して江戸に常駐する。そして、この参勤交代を受けて、やがて江戸の遊郭は巨大な規模に膨れ上がり、一方ではお座敷というものの人気も広がって、それにより芸者に対する需要も著しく増加するわけだが、これら遊女と芸者の存在は、文化のありようを考えるうえで避けて通ることは出来ない(これについては後ほど詳細に見ることにする)。

 もう1つは寺請制度である。これは別名檀家制度と呼ばれるもので、いわゆる今日の檀家の在り方は、この法令を起源としている。この寺請制度によって、江戸時代の人々はすべて、誰それはどの宗派のどの寺が請けると決められるわけだが、このことが当時の社会に与えた影響はとてもつもなく大きいものがある。というのも、鎌倉新仏教が誕生して以来、家康・秀忠の時代に至るまで、各宗派は、猛烈な布教合戦を展開してきたのである。日本における寺社勢力は、信徒獲得・勢力拡大をめぐって、旺盛な自由競争のなかで発展し、それにより時代の変化に応じてその都度変貌を遂げながら、社会に対して影響力を持ってきたのだ。しかし、この寺請制度を受けて、各宗派間の猛烈な自由競争に終止符が打たれる。そしてそれ以降、日本における寺社勢力は、中世において発揮したような社会に対する影響力を著しく喪失していくのである。

 これについては、京極夏彦が極めて興味深い分析をしている。彼によると、今日残っている日本の仏教というのは、本来の仏教の在り方から外れた、異常なほど儒教的色合いが濃いものになっていて、しかもそれは仏教・儒教の融合による日本独自の内容というのではなく、仏教と儒教の交用を通じて、仏教と儒教双方の原理性を排除した、骨抜きのようなものになっているというのだ。そして、日本の仏教がそのような骨の抜かれたものになっていったのは、家光の治世からだというのである注6。

 2つの原理の交用による原理性の排除というのは、柄谷が「双系性をめぐって」や「文字論」において何度となく指摘したことなのであるが、それがこの家光の時代において、ついに出てくるのである。

 京極の分析を、歴史家ではない素人のものだとして軽んじることは決して出来ない。そもそも、エネルギー、経済、米軍基地など、専門家と呼ばれる者たちがいかに嘘ばかり唱えてきたか、それを我々はいやというほど繰り返し見てきたのである。そして専門家に信頼が置けないというのは、歴史についてもまったく同じなのだ。一方で、歴史に関して、まさに小説家こそが、鋭く急所を突いたという例は、ヨーロッパにおいてはマルセル・プルーストを筆頭に幾らでもあるのである。

 そして、日本において、小説家の描く歴史像を誰よりも重視し、ドグマに支配された歴史家に対してもっと小説家の着想から勉強しろと盛んに唱えた学者こそ、他ならぬ網野なのである。網野は、隆慶一郎を非常に高く評価しており、『歴史と出会う』のなかで、彼について次のように語っている。

 「歴史家はそういう世界をまともに追いかけてこなかった。隆さんの仕事は、それとは違った意味で歴史学の成果を積極的に取り入れ、逆に歴史家の不勉強に活を入れているといえますね」。

 「隆さんのテーマは近世ですから、そこには近世研究者の学ぶべきヒントがいろいろと隠されていると思われる」。

 「それにしても遊郭のことについては、実によく勉強しておられる。少なくとも江戸時代の文献について、生半可な専門家などが知らないものを非常にたくさん読んでおられたのではないか」。

 それどころか網野は、隆慶一郎の仕事に感嘆し、自らを強く戒めているほどである。

 「私は本当に驚いた。面白さにひかれて読み進むうちに、私の拙い考えが恥ずかしく冷汗の出るほどに惹かれた個所に突き当たった」。

 「なにより、遊里、吉原についての隆氏の驚くべき学殖にはただ敬服するほかない」。

 その隆慶一郎の主著『吉原御免状』だが、これは江戸時代初期に起こったことを考察するうえで、実に豊富なヒントを与えてくれるものである。この作品において、中世における公界往来では、非常に様々な人々が自由に行き交っており、そしてその自由は時宗一向宗との関係において担保されていたことが指摘され、権力に抵抗する一揆も、その自由を守るためのものなのだ、ということが語られたうえで、次のようなパッセージがある。

 「一向一揆は、織田、豊臣の専制的政権に徹底的に抵抗し、一揆の恐ろしさを為政者にいやというほど叩き込んだ。徳川幕府は、その教訓を十分に生かし、公界つぶしのために世にも狡猾な方法をとった」。

 倭寇的状況が織り成される自由な公共空間であった公界をつぶすための「狡猾な方法」とは、まず何よりも非人・河原者などの制度による「差別」だが、しかしそれで終わるものではなく、一揆の源泉である寺社勢力の社会に対する影響力を喪失させ、一方で、往来にある文化の力を弱めるための、あらゆる施策である。そしてその手法は、非常にテクニカルな操作である。この点について、京極と柄谷を通して具体的に見てみよう。というのも、実は、この公界つぶしの際に行われたことは、明治政府による自由民権運動の抑圧とも関係があるのだ。キーワードは、第一に、儒教導入のなされ方である。

 柄谷は「双系性をめぐって」のなかで、次のように指摘している。

 「明治時代には儒教は滅びたといわれますが、実は、ある意味で儒教的な観念が強まるのです」。

 「むしろ明治以後に、国民の『儒教化』というべき事態が生じたのです」。

 「儒教イデオロギーは全国民に普及されたのです」。

 とはいえ、無論それは、儒教の本来的なあり方とはまるで異なるものだ。一方で京極は、『陰摩羅鬼の瑕』において、「要するに自由民権運動を煙たく感じた藩閥政府が、保守的な思想を正当化しようと」企み、そのために教育勅語を作成して儒教イデオロギーの普及を目論んだというのだが、京極によると、教育勅語の起草者は、熊本で儒者に師事した井上毅伊藤博文のブレーン)と、儒学者の永田永孚である。

 京極によれば、彼らは、天皇中心の支配体系をつくるべく、天皇を「父」として、教育勅語儒教的な原理で固めようとしたのだが、しかしそれは成されなかった。結論から言うと、京極は、作中の人物(中禅寺秋彦)に次のように語らせている。

 「さっき僕が説明したじゃないか。教育勅語を作る時、彼らが何をした? 儒教的なものから信仰を引っこ抜いただろ」。

 言うまでもなく、教育勅語こそは国家神道を普及させるうえで何よりも重要なものとして機能したわけだが、ところで、柄谷の「検閲と日本・近代・文学」によると、「国家神道とは宗教ではない」、というのが当時の政府の一貫した説明だったというのである。国家神道は宗教ではないから、人々は仏教なりキリスト教なり、あるいはその他様々な宗教を自由に信仰してよい、ということになっていたという。しかし、そんなバカなことがあるだろうか、神道とは、明らかに宗教である。だが、この訳のわからない操作により、社会においては、国家神道と他の宗教との交用という状態が生まれる。そしてそれは、京極が論じたように、教育勅語を通して儒教を無理やり押し付けておきながら、それでいてこの勅語が効果を発揮したのは、「儒教的なものから信仰を引っこ抜いた」ことに、つまり原理性を排除したことによるのである。

 かつて坂口安吾が指摘したように、当時から誰も天皇を「父」としては見ておらず、儒教的観念もまったく浸透していなかった。それらは、宗教でも思想でもなく、単に「国家のイデオロギー」としてのみ存在したのである。

 そして同じことは家光の治世下においても成されていた。日本の仏教は、まさにこの時期から著しく儒教的な色合いを帯びてゆき、内容的には殆ど仏教ではなくなっていくのだが、それは儒教を通して仏教を骨抜きにすることである。だが、それを行うために、次のような操作が行われたという。京極は、家光のブレーンであった林羅山を取り上げて、次のように論じている。

 「僕が思うに、羅山はね、明治政府に先駆けること300年、矢張り儒教から信仰を引っこ抜いた人だ」。

 つまり、あらかじめ儒教から信仰を引っこ抜いて、骨抜きになった「儒教」を作成し、そして更にその骨抜き「儒教」を仏教に導入することを通して、仏教をも骨抜きにする。これが、「狡猾な方法」でなくて何であろうか。

 江戸時代の儒教が、原理性を排除されたものであることは、柄谷も指摘している。「伊藤仁斎論」のなかで、彼は次のように言っている。

 「徳川体制は、徳川家の支配を永続しようとするシステムである。システムを維持することだけが徳川体制の目的であり、自己目的である。それは何か堅固な原理に支えられる必要はない。むしろ、それはつねにあいまいでなければならないのだ。たとえば、それは、武士による支配であるにもかかわらず、儒教的な『文治』を掲げる。そのいずれかに徹底されることはない。原理的に徹底すれば、崩壊せざるをえないからだ」。

 つまり、一揆は恐ろしい、だから仏教は骨抜きにしたい、一方で、「太平の世」だから儒教的な文治を掲げる必要があるものの、しかしそれは武士本来の在り方ではないので、これを徹底すると武士の側からそんな文治なんてものは冗談じゃないと諸大名の猛反発が起こる。一揆もいやなら諸大名の反乱もいやだ、どちらも骨抜きにしたい、というムチャなことを考え、政策を立案したのが家光の幕閣たちである。まさに「狡猾」という指摘がぴったりだ。

 ところで、日本の仏教の在り方とは、中世においても仏教と神道の交用だったではないか、と見る向きもあるかもしれないが、しかしこの場合は、この稿の最初の方で述べたような二重性というべきである。たとえば、ラテン・アメリカにおいては、敬虔なカトリック教徒でありながら、同時にサンテーリアの信徒でもあるというのは、別に珍しくもない(サンテーリアとは、音楽である前に宗教である)。

 外からやってきた世界宗教に対して強力に従属しながら、一方で母なる民俗的なものにも心を寄せるというのは、むしろ普遍的なのだ。そしてまた、当時は、仏教も神道も、共に信仰に裏打ちされた「本物」である。原理性が排除され、骨抜きにされた「偽物」ではないのだ。

 ともかく家光の幕閣たちが目論んだことは、まず信仰を引っこ抜くことで仏教を骨抜きにし、それにより寺社勢力の影響力を弱めることであり、一方で、非人・河原者など被差別民の制度を通して、寺社と往来の文化とを分断し、そうして人々の求心力であった文化の力を弱めることであり、更にファッションなども厳格に管理し、とことん自由を喪失させ、「倭寇的状況」を解体させること、これが彼らの企みである。

 網野が論じたように、かつて公界とは公共空間であり、また無縁とは窮屈な共同体的な縛りからの無縁であり、そうして往来は民族や国などに関係なく様々な人々が行き交う、コスモポリタンな自由が担保されていた。しかし、『吉原御免状』において、隆慶一郎は次のように言っている。

 「公界を苦界に変え、無縁を無縁仏というような暗いイメージに変えたのも、徳川幕府の陰謀といっていい。現代風にいえば、徳川幕府が最も恐れたのは自由にほかならず、その自由を封じるために、『無縁の徒』『公界』を『差別』の殻の中に閉じ込めたのである。その差別感覚が現代にまで尾を曳いている」。

 自由こそが権力の最も恐れるものだった。そうであるならば、これら権力の側が、音楽を目の敵にするのは至極当然といえる。何故なら、音楽こそは、自由の象徴だからだ。最も想像力が飛翔し、多くの人々と歓びを分かち合えるものである。となれば、ましてやそれが「倭寇的音楽」となれば、取り締まって当たり前といえる。

 更に、次のことも重要である。現代においては、プロ・スポーツの興行があり、人気チームともなれば1試合で数万人を動員するが、しかしこのプロ・スポーツがなければ、音楽の動員力は、他の芸術・芸能と比べても突出しているのは誰にでも解るであろう。津田大介の『動員の革命』ではないが、「動員」こそは、権力が最も恐れるものである。特にテレビなどマスメディアのない近代以前においては、情報の交換・共有も、集会や結社の発生も、その規模は、動員の規模に正比例するのだ。大勢の民衆が集まったら、何が起こるか解らないのである注7。江戸城のなかにいる幕閣たちは、そのことを一向一揆を通じていやというほど身に沁みているのだ。だから彼らは、動員の源となるようなものを徹底して抑圧したのである。そのために、音楽や演劇などの芸能者たちが、河原者として被差別民に処せられたのだ。

 とはいえ、いくら徳川幕府が仏教から信仰を引っこ抜いて骨抜きにし、寺社と往来を分断し、文化の力を弱め、非人・河原者などへの差別を定着させたとはいえ、それをもって当時の日本を一律に捉えるのは間違いである。何故なら、肝心要の「鎖国」政策に関しては完全に穴の開いたものであり、人々は自由に船を出して諸外国と貿易をする一方で、武士だけの特権とされた「名字帯刀」に関してもその法令はまるでザルであり、江戸時代の民衆も依然として刀を差して往来を行き来し、しかも鉄砲まで持っていたのである。そうである以上、髭やヘアスタイルなどのファッションに関しても、これが厳格な禁止として諸藩すべてに適用されたのかは、慎重に見る必要がある。

 『境界の日本史』は、髭とヘアスタイルの規制について、幕府の意向を受けて、それぞれの藩が、いつの時代に、どのような文言の法令によって規制に乗り出したかをわりと詳細に記しているのだが、しかしそれでもあまた存在した藩のうちほんの一部に過ぎないことも事実であり、それ以外の大多数の藩がどうだったかまでは解らない。というのも、『境界の日本史』には、「武士身分とそのシンボルである名字帯刀」とか、「士農工商の男性」などという表記が平気で出てくるのであり、この本は、その辺のことについては定説をそのまま鵜呑みにしてしまうという過ちを犯している。だが、既に見たように、帯刀は決して武士の特権ではなく、民衆もみんな帯刀していたのである。一方、「士農工商」についてだが、『歴史と出会う』における宮崎駿との対談のなかで、網野は次のように言っている。

 「士農工商イデオロギーで実態ではありません。中国大陸の在り方を儒者が日本に持ち込んだもので、説明しやすいからさかんに使っていますが、事実ではありません」。